2011年01月12日
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2011年01月11日
2011年01月10日
ウッドロウ・ウィルソン
トーマス・ウッドロウ・ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson, 1856年12月28日 - 1924年2月3日)は、第28代アメリカ合衆国大統領。政治学者であり、アンドリュー・ジャクソンの次にホワイトハウスで連続2期を勤めた2人目の民主党大統領。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 生い立ち
1.2 学者として
1.3 政治家として
1.4 大統領職
1.5 政権末期
1.6 内閣
2 結婚
3 その他
4 脚註
5 関連項目
6 外部リンク
来歴 [編集]
生い立ち [編集]
ヴァージニア州スタントンでジョゼフ・ウィルソンとジャネット・ウッドロウの長男として生まれる。祖父と父は敬虔なキリスト教牧師であり、特に父は合衆国長老教会の創設者の一人である。祖先は北アイルランドのストラベーンの出で、トーマス本人はジョージア州オーガスタで成長した。
父はトーマスに牧師の後を継がせようとしたが、ウィリアム・グラッドストンに私淑して政治家を志した。
トーマスは自らを「神の子」と信じていたふしがあり、政治への道を召命と見なしたことで、後にジークムント・フロイトの精神分析対象となった [1]。
デイヴィッドソン大学に入学し、1年後にプリンストン大学へ編入し1879年に卒業した。ファイ・カッパ・サイのメンバーだった。後に、ヴァージニア大学で1年間法律を学んだ。1886年にはジョンズ・ホプキンス大学から政治学の博士号 (Ph.D.) を受ける。ウィルソンは研究実績に基づく博士号を得た唯一の大統領である。
学者として [編集]
1885年にブリンマー大学で歴史学および政治学を教えた後、1888年にコネチカット州のウェスリアン大学に勤め、1890年にプリンストン大学の法律学と政治経済学の教授になった。1902年6月9日に満場一致でプリンストンの学長に選ばれた。1910年から翌年までアメリカ政治学会の会長だった。
1887年に執筆した論文『行政の研究』(The Study of Administration)において、政治行政分断論を提起し、実務的に政治(政党政治)と行政の分離を唱え、猟官制の抑制と近代的官僚制の再導入を提唱するとともに、研究領域的に政治学から行政学を分離した。ウィルソンの行政学に関する論文はこれ1つだけであるが、これによって、フランク・グッドナウと並んでアメリカにおける行政学の創始者として位置づけられている[2][3]。
政治家として [編集]
ウィルソンは同時代の政治的問題に対する公的コメントにより全国的な評判を得、その立場の政治的重要性は増加した。1910年には民主党のニュージャージー州知事候補に指名されてこれを受諾、秋の選挙に勝利して学者出身知事となった。 1912年の大統領選で民主党は大統領候補にウィルソンを指名した。ウィルソンは大統領選で「ニュー・フリーダム」をスローガンに掲げた。共和党のウィリアム・タフトとセオドア・ルーズベルトはお互いに対立し、共和党は内部分裂した。結果ウィルソンは大統領選に勝利した。
大統領職 [編集]
ウィルソンはニュー・フリーダムと呼ばれる進歩主義的国内改革を実行した。企業独占を支えた高率の関税を引きさげるなど、改革の意志を鮮明にした。一方、外交では共和党政権時代の「棍棒外交」や「ドル外交」を批判し、「宣教師外交」を主張したが実態は何も変わらず中南米諸国から反発を招いた。ウィルソン政権下でハイチが保護国となりドミニカも軍政下に置かれた。また、メキシコ革命の際はアメリカ軍を派遣してベラクルスを武力占領し、革命に干渉した。
第一次世界大戦に対してアメリカ合衆国を中立の立場に保ち、それは 1916年の再選に寄与した。しかしながらルシタニア号沈没事件による国民の反独感情や極東における日本の台頭を懸念する世論によって参戦への圧力は増大し、アメリカは1917年4月6日にドイツへの宣戦を布告した。開戦にさいしウィルソンは国内統制を強化し、愛国団体を通じてナショナリズムを煽り、労働運動や反戦運動などを弾圧した。
ノーベル賞受賞者
受賞年:1919年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:
第一次世界大戦末期の1918年1月8日に、ウィルソンは有名な「十四か条の平和原則」を発表した。その中で彼は国際平和機構の設立を提唱し、国際連盟として実現したが、アメリカ自身は議会(上院)の反対で加盟できなかった。第一次世界大戦休戦後、和平会談に出席するため1918年12月4日ヴェルサイユへ出発した。彼は在職中にヨーロッパへ旅行した最初の大統領である。合衆国代表としてヴェルサイユ条約に調印した。4月11日に日本代表の牧野伸顕らが出した人種的差別撤廃提案に対し、イギリスとオーストラリアが反発。議長を務めたウィルソンも、移民政策が拘束されると言う反対論を無視できず、国内選挙の都合から反対に回り、11対5で賛成多数だったにもかかわらず、「全会一致でない」と理由をつけて議長権限により否決に追い込んだ。
このことから、彼の唱える進歩的自由主義は白人のみを対象としていたという説もある。但し、ウィルソンがこの点について議会に妥協したのは、移民政策に絡み内政干渉を理由にアメリカの国際連盟不参加という事態を避けるためでもあった。しかし、後に議会(上院)の反対に遭い、結局不参加となってしまう。そのため、彼が人種差別撤廃の理念自体に反対していたかどうかには諸説ある。いずれにせよ、彼の理想主義は、現実の前にことごとく敗れたともいえる。
政権末期 [編集]
イーディス・ウィルソン夫人(右)と
1919年10月2日、コロラド州で脳梗塞を発症、一命を取りとめたが左半身不随、左側視野欠損、言語障害と重い後遺症が残り、大統領としての執務は事実上不可能となった。しかし主治医と大統領夫人のイーディスはこの事実を秘匿し、以後国政の決裁はイーディスが夫の名で行うこととなった。ウィルソンは長期間のリハビリを経た後、政権末期ごろになってようやく閣議に出席できるまでに回復したが、言語に明瞭さは戻ったものの機械的で感情を欠き、政策も無為無策で事なかれ主義が目立つものとなった。こうした事態を収拾し職務を代行すべきであったトーマス・マーシャル副大統領は、そもそもウィルソンと不仲で副大統領職も半ば嫌々引き受けたという事情もあり、大統領の職務不能を知ってもあえて火中の栗を拾おうとはせず、いくつかの儀典に大統領の名代として参加したほかは、職務権限の代行は一切しなかった。
こうした事実が明らかになったのは、実にウィルソンの死後になってからのことであり、これが後の大統領権限継承順位を明文化した憲法修正第25条制定の伏線となった。
内閣 [編集]
ホワイトハウスのポートレイト
職名 氏名 任期
大統領 ウッドロウ・ウィルソン 1913 - 1921
副大統領 トーマス・マーシャル 1913 - 1921
国務長官 ウィリアム・ブライアン 1913 - 1915
ロバート・ランシング 1915 - 1920
ベインブリッジ・コルビー 1920 - 1921
財務長官 ウィリアム・マカドゥー 1913 - 1918
カーター・グラス 1918 - 1920
デイヴィッド・ヒューストン 1920 - 1921
陸軍長官 リンドリー・ガリソン 1913 - 1916
ニュートン・ベイカー 1916 - 1921
司法長官 ジェームズ・マクレイノルズ 1913 - 1914
トーマス・グレゴリー 1914 - 1919
ミッチェル・パルマー 1919 - 1921
郵政長官 アルバート・バーレソン 1913 - 1921
海軍長官 ジョセファス・ダニエルズ 1913 - 1921
内務長官 フランクリン・レーン 1913 - 1920
ジョン・パイン 1920 - 1921
農務長官 デイヴィッド・ヒューストン 1913 - 1920
エドウィン・メリディス 1920 - 1921
商務長官 ウィリアム・レッドフィールド 1913 - 1919
ジョシュア・アレグザンダー 1919 - 1921
労働長官 ウィリアム・ウィルソン 1913 - 1921
結婚 [編集]
エレン・ルイーズ夫人
1885年にジョージア州出身のエレン・ルイーズ・アクソンと結婚し、マーガレット、ジェシー、エレノアの三女をもうけた。エレンは徐々に健康を害し1914年腎臓炎で死去した。ウィルソンは、在任中に独身だったことのある3人の大統領のうちの一人となっている。
1915年、58歳のウィルソンは、ボーリング家(ポカホンタスの子孫)出身であり未亡人となっていた43歳のイーディス・ボリング・ガルト(Edith Bolling Galt、1872年 - 1961年)を紹介され再婚した。イーディスは第一次世界大戦下でファーストレディの重責を務め、1919年にウィルソンが倒れると2年間にわたり非公式ながら夫に代わって国政をみた。
その他 [編集]
ジョンズ・ホプキンズ大学の学生寮ウィルソン・ハウスは彼にちなんで命名された。 プリンストン大学の公共政策大学院であるウッドロウ・ウィルソン・スクールも彼にちなんで命名されている。
ウィルソンの肖像が描かれた10万ドル紙幣
ウィルソンの肖像は1928年から1946年まで10万ドル紙幣 ($100,000) に使用されていた。但しこの紙幣は、一般流通用ではなく連邦準備制度理事会や財務省の財務処理のためにのみ使用される金証券だった。また原子力潜水艦ウッドロウ・ウィルソン も彼にちなんで命名されたもの。
現在のスロバキアの首都であるブラチスラヴァ市は、第一次世界大戦後短期間「ウィルソン市」(Wilsonovo mesto)と呼ばれた。これはウィルソン大統領がチェコスロバキアの建国を支援したことを記念したものであった。
ディスレクシアの為、9歳まで文字が読めず、11歳まで文章を書くことができなかった。
伝記にアーサー・リンク、草間秀三郎訳『ウッドロー・ウイルソン伝』(南窓社、1980年)がある。
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1 来歴
1.1 生い立ち
1.2 学者として
1.3 政治家として
1.4 大統領職
1.5 政権末期
1.6 内閣
2 結婚
3 その他
4 脚註
5 関連項目
6 外部リンク
来歴 [編集]
生い立ち [編集]
ヴァージニア州スタントンでジョゼフ・ウィルソンとジャネット・ウッドロウの長男として生まれる。祖父と父は敬虔なキリスト教牧師であり、特に父は合衆国長老教会の創設者の一人である。祖先は北アイルランドのストラベーンの出で、トーマス本人はジョージア州オーガスタで成長した。
父はトーマスに牧師の後を継がせようとしたが、ウィリアム・グラッドストンに私淑して政治家を志した。
トーマスは自らを「神の子」と信じていたふしがあり、政治への道を召命と見なしたことで、後にジークムント・フロイトの精神分析対象となった [1]。
デイヴィッドソン大学に入学し、1年後にプリンストン大学へ編入し1879年に卒業した。ファイ・カッパ・サイのメンバーだった。後に、ヴァージニア大学で1年間法律を学んだ。1886年にはジョンズ・ホプキンス大学から政治学の博士号 (Ph.D.) を受ける。ウィルソンは研究実績に基づく博士号を得た唯一の大統領である。
学者として [編集]
1885年にブリンマー大学で歴史学および政治学を教えた後、1888年にコネチカット州のウェスリアン大学に勤め、1890年にプリンストン大学の法律学と政治経済学の教授になった。1902年6月9日に満場一致でプリンストンの学長に選ばれた。1910年から翌年までアメリカ政治学会の会長だった。
1887年に執筆した論文『行政の研究』(The Study of Administration)において、政治行政分断論を提起し、実務的に政治(政党政治)と行政の分離を唱え、猟官制の抑制と近代的官僚制の再導入を提唱するとともに、研究領域的に政治学から行政学を分離した。ウィルソンの行政学に関する論文はこれ1つだけであるが、これによって、フランク・グッドナウと並んでアメリカにおける行政学の創始者として位置づけられている[2][3]。
政治家として [編集]
ウィルソンは同時代の政治的問題に対する公的コメントにより全国的な評判を得、その立場の政治的重要性は増加した。1910年には民主党のニュージャージー州知事候補に指名されてこれを受諾、秋の選挙に勝利して学者出身知事となった。 1912年の大統領選で民主党は大統領候補にウィルソンを指名した。ウィルソンは大統領選で「ニュー・フリーダム」をスローガンに掲げた。共和党のウィリアム・タフトとセオドア・ルーズベルトはお互いに対立し、共和党は内部分裂した。結果ウィルソンは大統領選に勝利した。
大統領職 [編集]
ウィルソンはニュー・フリーダムと呼ばれる進歩主義的国内改革を実行した。企業独占を支えた高率の関税を引きさげるなど、改革の意志を鮮明にした。一方、外交では共和党政権時代の「棍棒外交」や「ドル外交」を批判し、「宣教師外交」を主張したが実態は何も変わらず中南米諸国から反発を招いた。ウィルソン政権下でハイチが保護国となりドミニカも軍政下に置かれた。また、メキシコ革命の際はアメリカ軍を派遣してベラクルスを武力占領し、革命に干渉した。
第一次世界大戦に対してアメリカ合衆国を中立の立場に保ち、それは 1916年の再選に寄与した。しかしながらルシタニア号沈没事件による国民の反独感情や極東における日本の台頭を懸念する世論によって参戦への圧力は増大し、アメリカは1917年4月6日にドイツへの宣戦を布告した。開戦にさいしウィルソンは国内統制を強化し、愛国団体を通じてナショナリズムを煽り、労働運動や反戦運動などを弾圧した。
ノーベル賞受賞者
受賞年:1919年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:
第一次世界大戦末期の1918年1月8日に、ウィルソンは有名な「十四か条の平和原則」を発表した。その中で彼は国際平和機構の設立を提唱し、国際連盟として実現したが、アメリカ自身は議会(上院)の反対で加盟できなかった。第一次世界大戦休戦後、和平会談に出席するため1918年12月4日ヴェルサイユへ出発した。彼は在職中にヨーロッパへ旅行した最初の大統領である。合衆国代表としてヴェルサイユ条約に調印した。4月11日に日本代表の牧野伸顕らが出した人種的差別撤廃提案に対し、イギリスとオーストラリアが反発。議長を務めたウィルソンも、移民政策が拘束されると言う反対論を無視できず、国内選挙の都合から反対に回り、11対5で賛成多数だったにもかかわらず、「全会一致でない」と理由をつけて議長権限により否決に追い込んだ。
このことから、彼の唱える進歩的自由主義は白人のみを対象としていたという説もある。但し、ウィルソンがこの点について議会に妥協したのは、移民政策に絡み内政干渉を理由にアメリカの国際連盟不参加という事態を避けるためでもあった。しかし、後に議会(上院)の反対に遭い、結局不参加となってしまう。そのため、彼が人種差別撤廃の理念自体に反対していたかどうかには諸説ある。いずれにせよ、彼の理想主義は、現実の前にことごとく敗れたともいえる。
政権末期 [編集]
イーディス・ウィルソン夫人(右)と
1919年10月2日、コロラド州で脳梗塞を発症、一命を取りとめたが左半身不随、左側視野欠損、言語障害と重い後遺症が残り、大統領としての執務は事実上不可能となった。しかし主治医と大統領夫人のイーディスはこの事実を秘匿し、以後国政の決裁はイーディスが夫の名で行うこととなった。ウィルソンは長期間のリハビリを経た後、政権末期ごろになってようやく閣議に出席できるまでに回復したが、言語に明瞭さは戻ったものの機械的で感情を欠き、政策も無為無策で事なかれ主義が目立つものとなった。こうした事態を収拾し職務を代行すべきであったトーマス・マーシャル副大統領は、そもそもウィルソンと不仲で副大統領職も半ば嫌々引き受けたという事情もあり、大統領の職務不能を知ってもあえて火中の栗を拾おうとはせず、いくつかの儀典に大統領の名代として参加したほかは、職務権限の代行は一切しなかった。
こうした事実が明らかになったのは、実にウィルソンの死後になってからのことであり、これが後の大統領権限継承順位を明文化した憲法修正第25条制定の伏線となった。
内閣 [編集]
ホワイトハウスのポートレイト
職名 氏名 任期
大統領 ウッドロウ・ウィルソン 1913 - 1921
副大統領 トーマス・マーシャル 1913 - 1921
国務長官 ウィリアム・ブライアン 1913 - 1915
ロバート・ランシング 1915 - 1920
ベインブリッジ・コルビー 1920 - 1921
財務長官 ウィリアム・マカドゥー 1913 - 1918
カーター・グラス 1918 - 1920
デイヴィッド・ヒューストン 1920 - 1921
陸軍長官 リンドリー・ガリソン 1913 - 1916
ニュートン・ベイカー 1916 - 1921
司法長官 ジェームズ・マクレイノルズ 1913 - 1914
トーマス・グレゴリー 1914 - 1919
ミッチェル・パルマー 1919 - 1921
郵政長官 アルバート・バーレソン 1913 - 1921
海軍長官 ジョセファス・ダニエルズ 1913 - 1921
内務長官 フランクリン・レーン 1913 - 1920
ジョン・パイン 1920 - 1921
農務長官 デイヴィッド・ヒューストン 1913 - 1920
エドウィン・メリディス 1920 - 1921
商務長官 ウィリアム・レッドフィールド 1913 - 1919
ジョシュア・アレグザンダー 1919 - 1921
労働長官 ウィリアム・ウィルソン 1913 - 1921
結婚 [編集]
エレン・ルイーズ夫人
1885年にジョージア州出身のエレン・ルイーズ・アクソンと結婚し、マーガレット、ジェシー、エレノアの三女をもうけた。エレンは徐々に健康を害し1914年腎臓炎で死去した。ウィルソンは、在任中に独身だったことのある3人の大統領のうちの一人となっている。
1915年、58歳のウィルソンは、ボーリング家(ポカホンタスの子孫)出身であり未亡人となっていた43歳のイーディス・ボリング・ガルト(Edith Bolling Galt、1872年 - 1961年)を紹介され再婚した。イーディスは第一次世界大戦下でファーストレディの重責を務め、1919年にウィルソンが倒れると2年間にわたり非公式ながら夫に代わって国政をみた。
その他 [編集]
ジョンズ・ホプキンズ大学の学生寮ウィルソン・ハウスは彼にちなんで命名された。 プリンストン大学の公共政策大学院であるウッドロウ・ウィルソン・スクールも彼にちなんで命名されている。
ウィルソンの肖像が描かれた10万ドル紙幣
ウィルソンの肖像は1928年から1946年まで10万ドル紙幣 ($100,000) に使用されていた。但しこの紙幣は、一般流通用ではなく連邦準備制度理事会や財務省の財務処理のためにのみ使用される金証券だった。また原子力潜水艦ウッドロウ・ウィルソン も彼にちなんで命名されたもの。
現在のスロバキアの首都であるブラチスラヴァ市は、第一次世界大戦後短期間「ウィルソン市」(Wilsonovo mesto)と呼ばれた。これはウィルソン大統領がチェコスロバキアの建国を支援したことを記念したものであった。
ディスレクシアの為、9歳まで文字が読めず、11歳まで文章を書くことができなかった。
伝記にアーサー・リンク、草間秀三郎訳『ウッドロー・ウイルソン伝』(南窓社、1980年)がある。
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2011年01月10日
ウィリアム・タフト
ウィリアム・ハワード・タフト (William Howard Taft, 1857年9月15日 - 1930年3月8日) は、第27代アメリカ合衆国大統領および第10代連邦最高裁判所首席裁判官。MLBの始球式を初めて行った大統領である。
目次 [非表示]
1 経歴・人物
2 内閣
3 関連項目
4 外部リンク
経歴・人物 [編集]
1857年9月15日にオハイオ州シンシナティ市で生まれた。
タフトの父親アルフォンソ・タフトは著名な共和党員で、ユリシーズ・S・グラント大統領の元での陸軍長官を務めた。タフトは1880年に法曹界に入った直後にオハイオ州で政治経歴を始めた。
1900年にウィリアム・マッキンレー大統領が、米西戦争の結果譲渡されたフィリピンの文民政府組織委員会の長(Civil Governor)にタフトを指名した。
1901年から1904年までタフトは、フィリピンの初代知事を成功裡に務めた。1904年には、セオドア・ルーズベルト大統領がタフトを陸軍長官に指名した。
陸軍長官時代に訪日し、その際には桂・タフト協定と呼ばれる日米間の合意の成立に関わった。
セオドア・ルーズベルトは大統領職を二期務めた後に、1908年の大統領選出馬を辞退した。代わりに、彼は次の共和党大統領候補としてタフトを指名した。ルーズベルトの支援でタフトは民主党候補ウィリアム・ジェニングス・ブライアンを破った。
タフト政権下では、ルーズベルト前政権の方針を引き継ぎながらも、ドル外交と呼ばれる経済力を背景とした武力を伴わない平和的な外交を目指した。だが、東アジアでは門戸開放通牒の原則に従い、列強の必要以上の対中侵食を抑えつつ、列強との権益の平等的な分配を目指したが、かえって列強の反発を招いて頓挫した。また、中米地域でも欧州諸国の資本を排除して情勢の安定を図ったが、結果的にアメリカ自身が武力介入を行わざるを得なくなり、かえって情勢が不安定となってしまった。
タフトは大統領職を通じて、共和党のリベラル派(その多くはルーズベルト前大統領の政策に従い続けた)からの異議と争った。
進歩的な共和党員は、公然と1910年の議会選挙および1912年の共和党大統領予備選挙でタフトに挑戦した。タフトが共和党指名を勝ち取った時、彼らは、本選挙でタフトに対抗するために新党(アメリカ進歩党または革新党、別名「ブル・ムース」)の結成と対立候補としてセオドア・ルーズベルトの擁立を計画した。ルーズベルトの進歩党からの立候補は共和党員の投票を二分し、民主党候補ウッドロウ・ウィルソンの勝利を招く結果となった。
1921年からは連邦最高裁判所の首席裁判官を務めた。法廷をより効率的に機能させるために、タフトは最高裁判所が全国に重要な事件に先行を与えることができる1925年のジャッジ法の可決を主張した。
在任中はドル外交を推進、中南米や中国市場に対する露骨な介入を実行した。
彼の子の世代以降、タフト家の三世代は政界入りした。息子ロバート・A・タフトは1938年に上院議員に選任された。彼はニューディール政策に批判的な態度を取り1939年から1953年まで上院の共和党リーダーだった。大統領候補の指名争いにも出馬している。孫のロバート・タフト・ジュニアは1971年から1977年までオハイオ州の上院議員を務めた。曾孫のボブ・タフトは前オハイオ州知事である。
ポトマック川河畔の桜は、タフトの大統領在職中に東京市長尾崎行雄から贈られたものである。
「ホワイトハウスは世界で最も孤独な場所」という言葉を残した。
歴代大統領中最大の巨漢(160kg近くあった)であり、ホワイトハウスのバスタブに体がはまり込み、出られなくなったことがあるという。そのため、ホワイトハウスのバスタブがより大型のものに取り替えられた。
2010年現在、ひげを蓄えたアメリカ大統領はタフトが最後である。
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1 経歴・人物
2 内閣
3 関連項目
4 外部リンク
経歴・人物 [編集]
1857年9月15日にオハイオ州シンシナティ市で生まれた。
タフトの父親アルフォンソ・タフトは著名な共和党員で、ユリシーズ・S・グラント大統領の元での陸軍長官を務めた。タフトは1880年に法曹界に入った直後にオハイオ州で政治経歴を始めた。
1900年にウィリアム・マッキンレー大統領が、米西戦争の結果譲渡されたフィリピンの文民政府組織委員会の長(Civil Governor)にタフトを指名した。
1901年から1904年までタフトは、フィリピンの初代知事を成功裡に務めた。1904年には、セオドア・ルーズベルト大統領がタフトを陸軍長官に指名した。
陸軍長官時代に訪日し、その際には桂・タフト協定と呼ばれる日米間の合意の成立に関わった。
セオドア・ルーズベルトは大統領職を二期務めた後に、1908年の大統領選出馬を辞退した。代わりに、彼は次の共和党大統領候補としてタフトを指名した。ルーズベルトの支援でタフトは民主党候補ウィリアム・ジェニングス・ブライアンを破った。
タフト政権下では、ルーズベルト前政権の方針を引き継ぎながらも、ドル外交と呼ばれる経済力を背景とした武力を伴わない平和的な外交を目指した。だが、東アジアでは門戸開放通牒の原則に従い、列強の必要以上の対中侵食を抑えつつ、列強との権益の平等的な分配を目指したが、かえって列強の反発を招いて頓挫した。また、中米地域でも欧州諸国の資本を排除して情勢の安定を図ったが、結果的にアメリカ自身が武力介入を行わざるを得なくなり、かえって情勢が不安定となってしまった。
タフトは大統領職を通じて、共和党のリベラル派(その多くはルーズベルト前大統領の政策に従い続けた)からの異議と争った。
進歩的な共和党員は、公然と1910年の議会選挙および1912年の共和党大統領予備選挙でタフトに挑戦した。タフトが共和党指名を勝ち取った時、彼らは、本選挙でタフトに対抗するために新党(アメリカ進歩党または革新党、別名「ブル・ムース」)の結成と対立候補としてセオドア・ルーズベルトの擁立を計画した。ルーズベルトの進歩党からの立候補は共和党員の投票を二分し、民主党候補ウッドロウ・ウィルソンの勝利を招く結果となった。
1921年からは連邦最高裁判所の首席裁判官を務めた。法廷をより効率的に機能させるために、タフトは最高裁判所が全国に重要な事件に先行を与えることができる1925年のジャッジ法の可決を主張した。
在任中はドル外交を推進、中南米や中国市場に対する露骨な介入を実行した。
彼の子の世代以降、タフト家の三世代は政界入りした。息子ロバート・A・タフトは1938年に上院議員に選任された。彼はニューディール政策に批判的な態度を取り1939年から1953年まで上院の共和党リーダーだった。大統領候補の指名争いにも出馬している。孫のロバート・タフト・ジュニアは1971年から1977年までオハイオ州の上院議員を務めた。曾孫のボブ・タフトは前オハイオ州知事である。
ポトマック川河畔の桜は、タフトの大統領在職中に東京市長尾崎行雄から贈られたものである。
「ホワイトハウスは世界で最も孤独な場所」という言葉を残した。
歴代大統領中最大の巨漢(160kg近くあった)であり、ホワイトハウスのバスタブに体がはまり込み、出られなくなったことがあるという。そのため、ホワイトハウスのバスタブがより大型のものに取り替えられた。
2010年現在、ひげを蓄えたアメリカ大統領はタフトが最後である。
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2011年01月08日
グレース・ケリー
グレース・パトリシア・ケリー(Grace Patricia Kelly、1929年11月12日-1982年9月14日)は、モナコ公国レーニエ大公妃、アメリカ合衆国の元女優。
同時代の女優マリリン・モンローの明るさとセクシーさを前面に出した美貌とは対照的に、グレースの気品を湛えた美貌は「クール・ビューティー」(cool beauty)と賛美された。人気絶頂の最中、ヨーロッパの王族と結婚し女優業から引退した。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 生い立ち
1.2 女優時代
1.3 結婚・公妃として
2 子女
3 逸話
4 出演作品
5 その他
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
生涯 [編集]
生い立ち [編集]
1929年、ペンシルベニア州フィラデルフィアのアイルランド系カトリックの裕福な家に生まれた。父:ジョン・ブレンダン・ケリーは貧困層出身であったが、一代で建築業をもって成功した億万長者でオリンピックのボート競技金メダル選手。母:マーガレットはドイツ系で元モデルであり大学講師だった。父方の伯父は、劇作家:ジョージ・ケリー
少女時代はおとなしく、赤い頬の人前に姿を現すのが苦手な子供で、3人姉妹の中でも真ん中のグレースが一番不器用であったという。その一方、ダンスやピアノを学び、やがて演技に興味を示すようになる。
女優時代 [編集]
アカデミー授賞式 1956年
ハイスクール卒業後、家族の反対を押し切り女優を志す。ニューヨークでモデルのアルバイトをしながら演技を学び、1949年に舞台『父』でブロードウェイデビューした。グレース自身は舞台女優を目指していたが、その後、舞台の出演中にハリウッドから誘いがかかり、1951年、22歳で映画に出演しデビュー(『Fourteen Hours』)。この作品を見たスタンリー・クレイマー監督が『真昼の決闘』でゲイリー・クーパーの相手役に抜擢した。映画監督アルフレッド・ヒッチコックのお気に入り女優で『ダイヤルMを廻せ!』『裏窓』『泥棒成金』などの作品でヒロインをつとめている。
1954年に『モガンボ』でアカデミー助演女優賞にノミネートされ、1955年には俳優ビング・クロスビーの妻役でシリアスな演技を見せた『喝采』でアカデミー主演女優賞を受賞。
非常に恋多き女性として有名で、ゲーリー・クーパー、クラーク・ゲーブル、レイ・ミランド、ビング・クロスビー、ウィリアム・ホールデン、オレグ・カッシーニ、ジャン=ピエール・オーモンなどの男性と浮名を流した。父親が、異性との交際に異常なほどうるさかったことも、背景にある。
結婚・公妃として [編集]
バラ「プランセス・ド・モナコ」(1982年)メイヤン作。彼女に献呈されることになっていたバラ(発表前に他界)。ピンクと白の2色は、モナコの国旗をイメージしている。
カンヌ国際映画祭で知り合ったモナコ大公レーニエ3世(在位1949年 - 2005年)と結婚。公妃となるため女優業を引退、1956年のミュージカル映画『上流社会』が最後の作品となった。なお、1966年の麻薬撲滅キャンペーン映画『悪のシンフォニー』にはグレース妃として特別出演している。挙式は、カトリックの伝統に沿い、グレースの出身地であるアメリカで行われることも検討されたが、最終的にはモナコで行われることになった。
1956年1月6日、婚約が発表。同年4月18日、モナコ大公宮殿にて法的な結婚式が行われた(The Civil Wedding)。翌4月19日、モナコ大聖堂(サン・ニコラ大聖堂)にて、カトリック式の挙式が行われた(The Cathedral Wedding)。これらの模様は、ヨーロッパ諸国で生中継された。女優から公妃へ、グレースの華麗な転身は世界中で人気を集め、モナコのイメージアップに多大に貢献した。
1981年(昭和56年)、来日して神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア'81)や京都を訪れて、有馬温泉の老舗旅館に宿泊した。
1982年9月13日、自らハンドルを握りローバー3500を運転して南仏のロックアジェルの別荘からモナコに戻る途中に脳梗塞を発症。そのまま急カーブの坂道でガードレールに激突し、道路横の崖を40メートルほど転落して自動車は大破した。事故後すぐに病院へ搬送されたが意識が回復しないまま翌日に死亡。享年52。この事故死を受けてモンテ・カルロでは1日全てのカジノの営業を中止して喪に服した。
同乗していた次女のステファニー公女(当時17歳)は軽傷であり、9月26日[1]に退院した。現地報道では、一時情報が錯綜し、ステファニー公女が運転していたとも報道された[2]。真相は不明のままである。
9月18日、モナコ大聖堂にて葬儀が行われ、各国の王族・要人の他、フランク・シナトラらハリウッド俳優も参列した。
子女 [編集]
レーニエ3世との間には、一男二女がある
カロリーヌ・ルイーズ・マルゲリート(1957年-) - ハノーヴァー王子エルンスト・アウグスト5世妃
アルベール・ルイ・フィリップ(1958年-) - モナコ大公アルベール2世
ステファニー・マリー・エリザベス(1965年-)
逸話 [編集]
1957年に長女の妊娠をマスコミに悟られないようエルメス社のバッグ「サック・ア・クロワ」でカメラから腹部を隠した。この事でバッグが有名になり、商品は「ケリーバッグ」と改名された。
ポール・ギャリコの小説『トンデモネズミ大活躍』に献辞があるが、これは、彼女が初めて作った陶製のネズミの置物を題材にした作品の執筆をギャリコに依頼しており、それを受けたもの。
日本文化を愛好し(特に華道をはじめ植物に関するもの)、モナコに日本庭園を造営することを希望していた。死後、レーニエ3世の指示によって、別府保男設計による本格的な日本庭園がつくられた。1994年に開園。庭園内の茶室「雅園」は、フランス語訳すると"Jardin de Grace"すなわち"グレースの庭"の意となる。
同時代の女優マリリン・モンローの明るさとセクシーさを前面に出した美貌とは対照的に、グレースの気品を湛えた美貌は「クール・ビューティー」(cool beauty)と賛美された。人気絶頂の最中、ヨーロッパの王族と結婚し女優業から引退した。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 生い立ち
1.2 女優時代
1.3 結婚・公妃として
2 子女
3 逸話
4 出演作品
5 その他
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
生涯 [編集]
生い立ち [編集]
1929年、ペンシルベニア州フィラデルフィアのアイルランド系カトリックの裕福な家に生まれた。父:ジョン・ブレンダン・ケリーは貧困層出身であったが、一代で建築業をもって成功した億万長者でオリンピックのボート競技金メダル選手。母:マーガレットはドイツ系で元モデルであり大学講師だった。父方の伯父は、劇作家:ジョージ・ケリー
少女時代はおとなしく、赤い頬の人前に姿を現すのが苦手な子供で、3人姉妹の中でも真ん中のグレースが一番不器用であったという。その一方、ダンスやピアノを学び、やがて演技に興味を示すようになる。
女優時代 [編集]
アカデミー授賞式 1956年
ハイスクール卒業後、家族の反対を押し切り女優を志す。ニューヨークでモデルのアルバイトをしながら演技を学び、1949年に舞台『父』でブロードウェイデビューした。グレース自身は舞台女優を目指していたが、その後、舞台の出演中にハリウッドから誘いがかかり、1951年、22歳で映画に出演しデビュー(『Fourteen Hours』)。この作品を見たスタンリー・クレイマー監督が『真昼の決闘』でゲイリー・クーパーの相手役に抜擢した。映画監督アルフレッド・ヒッチコックのお気に入り女優で『ダイヤルMを廻せ!』『裏窓』『泥棒成金』などの作品でヒロインをつとめている。
1954年に『モガンボ』でアカデミー助演女優賞にノミネートされ、1955年には俳優ビング・クロスビーの妻役でシリアスな演技を見せた『喝采』でアカデミー主演女優賞を受賞。
非常に恋多き女性として有名で、ゲーリー・クーパー、クラーク・ゲーブル、レイ・ミランド、ビング・クロスビー、ウィリアム・ホールデン、オレグ・カッシーニ、ジャン=ピエール・オーモンなどの男性と浮名を流した。父親が、異性との交際に異常なほどうるさかったことも、背景にある。
結婚・公妃として [編集]
バラ「プランセス・ド・モナコ」(1982年)メイヤン作。彼女に献呈されることになっていたバラ(発表前に他界)。ピンクと白の2色は、モナコの国旗をイメージしている。
カンヌ国際映画祭で知り合ったモナコ大公レーニエ3世(在位1949年 - 2005年)と結婚。公妃となるため女優業を引退、1956年のミュージカル映画『上流社会』が最後の作品となった。なお、1966年の麻薬撲滅キャンペーン映画『悪のシンフォニー』にはグレース妃として特別出演している。挙式は、カトリックの伝統に沿い、グレースの出身地であるアメリカで行われることも検討されたが、最終的にはモナコで行われることになった。
1956年1月6日、婚約が発表。同年4月18日、モナコ大公宮殿にて法的な結婚式が行われた(The Civil Wedding)。翌4月19日、モナコ大聖堂(サン・ニコラ大聖堂)にて、カトリック式の挙式が行われた(The Cathedral Wedding)。これらの模様は、ヨーロッパ諸国で生中継された。女優から公妃へ、グレースの華麗な転身は世界中で人気を集め、モナコのイメージアップに多大に貢献した。
1981年(昭和56年)、来日して神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア'81)や京都を訪れて、有馬温泉の老舗旅館に宿泊した。
1982年9月13日、自らハンドルを握りローバー3500を運転して南仏のロックアジェルの別荘からモナコに戻る途中に脳梗塞を発症。そのまま急カーブの坂道でガードレールに激突し、道路横の崖を40メートルほど転落して自動車は大破した。事故後すぐに病院へ搬送されたが意識が回復しないまま翌日に死亡。享年52。この事故死を受けてモンテ・カルロでは1日全てのカジノの営業を中止して喪に服した。
同乗していた次女のステファニー公女(当時17歳)は軽傷であり、9月26日[1]に退院した。現地報道では、一時情報が錯綜し、ステファニー公女が運転していたとも報道された[2]。真相は不明のままである。
9月18日、モナコ大聖堂にて葬儀が行われ、各国の王族・要人の他、フランク・シナトラらハリウッド俳優も参列した。
子女 [編集]
レーニエ3世との間には、一男二女がある
カロリーヌ・ルイーズ・マルゲリート(1957年-) - ハノーヴァー王子エルンスト・アウグスト5世妃
アルベール・ルイ・フィリップ(1958年-) - モナコ大公アルベール2世
ステファニー・マリー・エリザベス(1965年-)
逸話 [編集]
1957年に長女の妊娠をマスコミに悟られないようエルメス社のバッグ「サック・ア・クロワ」でカメラから腹部を隠した。この事でバッグが有名になり、商品は「ケリーバッグ」と改名された。
ポール・ギャリコの小説『トンデモネズミ大活躍』に献辞があるが、これは、彼女が初めて作った陶製のネズミの置物を題材にした作品の執筆をギャリコに依頼しており、それを受けたもの。
日本文化を愛好し(特に華道をはじめ植物に関するもの)、モナコに日本庭園を造営することを希望していた。死後、レーニエ3世の指示によって、別府保男設計による本格的な日本庭園がつくられた。1994年に開園。庭園内の茶室「雅園」は、フランス語訳すると"Jardin de Grace"すなわち"グレースの庭"の意となる。
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2011年01月08日
マイケル・ケイン
マイケル・ケイン(Michael Caine)、本名サー・モーリス・ジョセフ・ミクルホワイト・ジュニア、CBE (Sir Maurice Joseph Micklewhite Jr.,CBE 1933年3月14日 - )は、イギリス・イングランド・ロンドン出身の俳優。芸名はアメリカ映画『ケイン号の叛乱』(1954年、エドワード・ドミトリク監督)から採ったという。
目次 [非表示]
1 経歴
2 私生活
3 主な出演作
4 外部リンク
経歴 [編集]
南ロンドンのロザーハイドで生まれ、キャンバーウェルで育った。第二次世界大戦中はノーフォークへ疎開。戦後、兵役でベルリンや韓国に赴いた後、舞台監督の助手などを務めながら演技を志し、後にはロンドンの演劇学校に学んで、舞台俳優となった。
デビューしたときのステージネームはマイケル・スコットであったが、同名の俳優がいたためその名を変更しなければならなかった。ロンドンのレスター・スクウェアの電話ボックスでエージェントと名前変更の話をしていたとき、辺りを見回すとオデオンで偶然『ケイン号の叛乱』が上映されており、その名前をマイケル・ケインに決定した。彼はインタビュアーに、そのとき上映されていた映画が『101匹わんちゃん大行進』だったなら名前は「マイケル・101・ダルメシアン」だったろうと冗談を言ったことがある。
1956年、『韓国の丘』の脇役としてスクリーンデビュー。下積みが長かったが、1964年の『ズール戦争』の陸軍中尉役で注目され、1965年にはレン・デイトンのスパイ小説を原作とした『国際諜報局』で主演。この映画では『007』シリーズのジェームズ・ボンドのアンチテーゼである、眼鏡を掛けたシニカルなサラリーマンスパイのハリー・パーマーを飄々と演じて好評を博した。『ハリー・パーマー』シリーズは続編2作が作られ、ケインは一躍人気を得る。クールでシニカルなキャラクターは、その後もケインの得意とする役柄となった。
続いて主演した『アルフィー』のプレイボーイ役では、全米映画批評家協会賞最優秀男優賞を受賞し、アカデミー主演男優賞候補となった。当時遥かに格上だった名優ローレンス・オリビエと五分に渡り合う演技をみせた『探偵/スルース』ほか、『リタと大学教授』、『愛の落日』でもアカデミー主演男優賞候補となるが、受賞したのは『ハンナとその姉妹』、『サイダーハウス・ルール』での二度の助演男優賞である。
叙情的なシリアスプレイから、コメディでの好色でとぼけた役まで、その演技の幅は広く、輝かしい受賞歴を誇る名優中の名優であるが、スケジュールと出演料の都合さえあえば作品を選ばない主義である。そのため出演作品は非常に多く、時に『スウォーム』、『ポセイドン・アドベンチャー2』、『沈黙の要塞』などのB級作品や、『オースティン・パワーズ ゴールドメンバー』のような怪作にも出演している。また太平洋戦争末期の、日本軍と連合軍とのジャングルでの戦闘を描いた『燃える戦場』では、イギリス軍二等兵役で、日本軍少佐役の高倉健と共演した。
最初のアカデミー助演男優賞の受賞の際、『ジョーズ'87 復讐篇』(ビデオ題名『ジョーズ4/復讐編』)の撮影でバハマ滞在中であることを理由に授賞式を欠席したのは有名なエピソードである(ちなみに、同作は1987年度のラジー賞では7部門にノミネートされ、マイケル・ケイン自身も、幸い(?)受賞は逃したがワースト助演男優賞にノミネートされた)。帰国後、テレビのトークショーに出演し、「制作者のみんな、オスカーをもらったからって、ギャラをふっかけないから安心してくれ」と発言した。2度目の助演男優賞を受賞した2000年のアカデミー賞授賞式では、出演作の多さを司会のビリー・クリスタルに「授賞式の休憩中にも1本撮るのかい?」とネタにされた。
スパイ「ハリー・パーマー」役で著名となったケインは、ジェームズ・ボンド役を演じたショーン・コネリー、ロジャー・ムーア、ピアース・ブロスナンと共演し、主役を演じた経験がある(コネリーとは『王になろうとした男』、ムーアとは『ダブルチェイス』、ブロスナンとは『第四の核』で共演)。また、前出のオスカー授賞式に欠席した翌年にプレゼンターとして出演した際、コネリー(ちなみにこの年の最優秀助演男優賞を受賞)、ムーアと3人で壇上に上がり、丁々発止のやり取りで会場の爆笑を誘っている。
ジュード・ロウとは縁あってか、彼自身の主演作『アルフィー』と、『探偵スルース』では、前者ではかつて自身が演じた役をロウが演じ、後者ではロウと競演を果たしている。後者ではローレンス・オリヴィエがオリジナル作品で演じた役を演じている。
キャリアへの評価から、1993年には英国女王エリザベス2世からCBE勲章(Commander of the British Empire)を授賞された。更に2000年には長年の活動を称えられてナイトに叙され、Sir(サー)の称号を受けた。
私生活 [編集]
2008年、ノーベル平和賞コンサートでスカーレット・ヨハンソンと
1955年にパトリシア・ヘインズと結婚。1子儲けるが1958年に離婚。1973年に再婚したシャキーラ・ケインは、夫の主演作『王になろうとした男』に特別出演している。シャキーラとの間にも1子ある。
チェルシーFCのサポーターでもある。
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1 経歴
2 私生活
3 主な出演作
4 外部リンク
経歴 [編集]
南ロンドンのロザーハイドで生まれ、キャンバーウェルで育った。第二次世界大戦中はノーフォークへ疎開。戦後、兵役でベルリンや韓国に赴いた後、舞台監督の助手などを務めながら演技を志し、後にはロンドンの演劇学校に学んで、舞台俳優となった。
デビューしたときのステージネームはマイケル・スコットであったが、同名の俳優がいたためその名を変更しなければならなかった。ロンドンのレスター・スクウェアの電話ボックスでエージェントと名前変更の話をしていたとき、辺りを見回すとオデオンで偶然『ケイン号の叛乱』が上映されており、その名前をマイケル・ケインに決定した。彼はインタビュアーに、そのとき上映されていた映画が『101匹わんちゃん大行進』だったなら名前は「マイケル・101・ダルメシアン」だったろうと冗談を言ったことがある。
1956年、『韓国の丘』の脇役としてスクリーンデビュー。下積みが長かったが、1964年の『ズール戦争』の陸軍中尉役で注目され、1965年にはレン・デイトンのスパイ小説を原作とした『国際諜報局』で主演。この映画では『007』シリーズのジェームズ・ボンドのアンチテーゼである、眼鏡を掛けたシニカルなサラリーマンスパイのハリー・パーマーを飄々と演じて好評を博した。『ハリー・パーマー』シリーズは続編2作が作られ、ケインは一躍人気を得る。クールでシニカルなキャラクターは、その後もケインの得意とする役柄となった。
続いて主演した『アルフィー』のプレイボーイ役では、全米映画批評家協会賞最優秀男優賞を受賞し、アカデミー主演男優賞候補となった。当時遥かに格上だった名優ローレンス・オリビエと五分に渡り合う演技をみせた『探偵/スルース』ほか、『リタと大学教授』、『愛の落日』でもアカデミー主演男優賞候補となるが、受賞したのは『ハンナとその姉妹』、『サイダーハウス・ルール』での二度の助演男優賞である。
叙情的なシリアスプレイから、コメディでの好色でとぼけた役まで、その演技の幅は広く、輝かしい受賞歴を誇る名優中の名優であるが、スケジュールと出演料の都合さえあえば作品を選ばない主義である。そのため出演作品は非常に多く、時に『スウォーム』、『ポセイドン・アドベンチャー2』、『沈黙の要塞』などのB級作品や、『オースティン・パワーズ ゴールドメンバー』のような怪作にも出演している。また太平洋戦争末期の、日本軍と連合軍とのジャングルでの戦闘を描いた『燃える戦場』では、イギリス軍二等兵役で、日本軍少佐役の高倉健と共演した。
最初のアカデミー助演男優賞の受賞の際、『ジョーズ'87 復讐篇』(ビデオ題名『ジョーズ4/復讐編』)の撮影でバハマ滞在中であることを理由に授賞式を欠席したのは有名なエピソードである(ちなみに、同作は1987年度のラジー賞では7部門にノミネートされ、マイケル・ケイン自身も、幸い(?)受賞は逃したがワースト助演男優賞にノミネートされた)。帰国後、テレビのトークショーに出演し、「制作者のみんな、オスカーをもらったからって、ギャラをふっかけないから安心してくれ」と発言した。2度目の助演男優賞を受賞した2000年のアカデミー賞授賞式では、出演作の多さを司会のビリー・クリスタルに「授賞式の休憩中にも1本撮るのかい?」とネタにされた。
スパイ「ハリー・パーマー」役で著名となったケインは、ジェームズ・ボンド役を演じたショーン・コネリー、ロジャー・ムーア、ピアース・ブロスナンと共演し、主役を演じた経験がある(コネリーとは『王になろうとした男』、ムーアとは『ダブルチェイス』、ブロスナンとは『第四の核』で共演)。また、前出のオスカー授賞式に欠席した翌年にプレゼンターとして出演した際、コネリー(ちなみにこの年の最優秀助演男優賞を受賞)、ムーアと3人で壇上に上がり、丁々発止のやり取りで会場の爆笑を誘っている。
ジュード・ロウとは縁あってか、彼自身の主演作『アルフィー』と、『探偵スルース』では、前者ではかつて自身が演じた役をロウが演じ、後者ではロウと競演を果たしている。後者ではローレンス・オリヴィエがオリジナル作品で演じた役を演じている。
キャリアへの評価から、1993年には英国女王エリザベス2世からCBE勲章(Commander of the British Empire)を授賞された。更に2000年には長年の活動を称えられてナイトに叙され、Sir(サー)の称号を受けた。
私生活 [編集]
2008年、ノーベル平和賞コンサートでスカーレット・ヨハンソンと
1955年にパトリシア・ヘインズと結婚。1子儲けるが1958年に離婚。1973年に再婚したシャキーラ・ケインは、夫の主演作『王になろうとした男』に特別出演している。シャキーラとの間にも1子ある。
チェルシーFCのサポーターでもある。
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2011年01月08日
ニコラス・ケイジ
ニコラス・ケイジ(Nicolas Cage、本名ニコラス・キム・コッポラ(Nicolas Kim Coppola)、1964年1月7日- )は、アメリカ合衆国の俳優であり、映画監督、映画製作者でもある。愛称はニック(Nick)。身長185cm。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 生い立ち
1.2 キャリア
2 私生活
2.1 家族
2.2 趣味
2.3 金銭
3 出演作品
4 主な受賞
5 脚注
6 外部リンク
来歴 [編集]
生い立ち [編集]
カリフォルニア州ロングビーチ生まれ。父親のオーガスト・コッポラはイタリア系で大学教授兼作家、母親のジョイ・フォーゲルザングはドイツ系のバレエ・ダンサー。兄(マーク、クリストファー)がおり、クリストファーは映画監督をしている。
父方の祖父は音楽家・作曲家のカーマイン・コッポラ、祖母は女優のイタリア・ペニーニ。叔父に映画監督のフランシス・フォード・コッポラ、叔母に女優のタリア・シャイア、いとこにソフィア・コッポラ、ローマン・コッポラ、ジェイソン・シュワルツマンがいる。
ビバリーヒルズ高校中退。
日本語学校に通っていた経験があるため日本語がある程度話せる。映画でもしばしば披露する他、来日時には日本語で挨拶することもある。
キャリア [編集]
1981年に『初体験/リッジモント・ハイ』でニコラス・コッポラとしてデビュー。その後、現在の芸名に変更。芸名の「ケイジ」の由来はマーベル・コミック社のコミック「パワーマン」の主人公ルーク・ケイジから。若い頃はコッポラ監督の甥と呼ばれることを嫌がっていた。オーディションを受けても、製作者たちの浴びせる質問は彼についてではなく、叔父フランシスのことばかりだったという。本名のコッポラを名乗らず、あえて“ケイジ”の芸名を使うことにしたのも、そのためと言われている。
1995年の『リービング・ラスベガス』でアカデミー主演男優賞を受賞。オスカー受賞後は、芸術的な映画に留まらず、大作映画にも積極的に出演した。同業のショーン・ペンはケイジの大作映画出演をいぶかしく思っていると発言した[1]。
サターン・フィルムズ(Saturn Films)という映画制作会社を設立。2000年に『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』に製作者として参加し、2002年には『ソニー』(sonny)で監督兼プロデューサーを務めた。その後も、映画制作会社サターン・フィルムズの共同経営者として、いくつかの作品をプロデュースしている。
私生活 [編集]
家族 [編集]
1995年4月8日に女優のパトリシア・アークエットと結婚したが2001年5月18日に離婚。2002年8月10日にはリサ・マリー・プレスリーと再婚したが、同年11月15日に離婚を申請し、2004年5月26日に離婚。ちなみに、ケイジはプレスリーのコレクターでもある。
2004年7月30日にロサンゼルスの寿司店にてウエイトレスをしていた韓国系アメリカ人女性アリス・キムと再々婚した。2005年10月3日に長男カル=エル・コッポラ・ケイジが誕生。名前のカル=エルとは『スーパーマン』が生まれた時の名前である。
趣味 [編集]
非常に車好きでフェラーリの現行車種を全車種(限定車のエンツォ等含む)所有している。また、イランのモハンマド・レザー・パフラヴィー元国王が所有していたランボルギーニを所有していたこともある。
またアメリカンコミック好きでも知られ、自身の芸名はもとより息子にカルエル(スーパーマンの本名)と名づけるほどである。彼のコミックコレクションをオークションにかけた際に出品された400品目の中にはアクションコミック1号やウィズコミック1号、ディテクティブコミック38号、オールスターコミック3号等のレアアイテムが目白押しで総落札額は160万ドルに達した。また日本の成年コミックに並々ならぬ興味を示しており「論ずるに値する」と述べている。
また、カルト映画も好きで、同じ趣味のラモーンズのリーダーのジョーイ・ラモーンとは親友だった。そのため、ケイジは彼が好きだったカルト映画『ウィッカーマン』を自費で2007年にリメイクし、ラストに「ジョーイ・ラモーンに捧ぐ」とクレジットした。しかしそのため、ラジー賞主演男優部門をはじめ5部門にノミネートされる結果となった[2]。
ガレージキットのコレクターでもあり、まんだらけを過去4回訪れている。そのたびに段ボール数箱分の買い物をするため、ニコラスが来た日は売り上げが跳ね上がるという。過去一番大きな買い物は高さ1.5メートルのガメラ(40万円)。[3]
金銭 [編集]
ハリウッドを代表する俳優であるニコラス・ケイジは現在、映画1本の出演料が15億円と言われている。
かなりの浪費家として知られ、古城、高級車、恐竜の化石や骨、コミックコレクションなどを派手に購入していたニコラスだが、その浪費癖から財政難になってしまい、2009年8月には200万ドル(日本円で約1億8000万円)の債務不履行で銀行から訴えられているほか、2007年と2008年分の未納分税金や延滞分利子および罰金などで630万ドル(日本円で約5億6700万円)を滞納していることが明らかになった。ニコラスは元ビジネス・マネージャーのサミュエル・レビンの不適格なアドバイスが財政難の原因と釈明し、彼を相手取って2000万ドル(日本円で約18億円)の訴訟をおこしている。
2009年11月、ピープル誌によれば、ニコラスがニューオリンズのフレンチ・クォーターの一角に所有していた2軒の家が競売で売られた。この2軒は税金の滞納で差し押さえられていたもので、落札者はニコラスがローンを組んでいるリージョンス銀行。2軒ともこの銀行が落札したが、他に入札者はいなかったという。資産価値は合計で680万ドル(日本円で約6億1200万円)だが、落札金額は450万ドル(日本円で約4億500万円)とお買い得だったようだ。ニコラスは他にも担保としてラスベガス近郊の高級住宅地のベルエアに所有する豪邸を1100万ドル、マリブの豪邸を1000万ドルで競売に出したが買い手が付かず、銀行に差し押さえられた。さらにロードアイランドにある豪邸も差し押さえられ、オークションで競売にかけられている。
大の車マニアとしても有名でフェラーリの現行モデルはほとんど所有しているニコラスだが、2010年3月に高級車のロールス・ロイスのリースを巡って訴えられた。ニコラスは2007年に55万ドル(日本円で約4950万円)相当の1964年型のロールス・ロイスSCを月々7663ドル(日本円で約69万円)で5年リースし、その4ヵ月後には24万5000ドル(日本円で約2200万円)相当の2002年型も月々3630ドル(日本円で約33万円)で5年のリース契約を結んだ。ところが税金滞納などの財政難により、月々の支払いができず、2台とも途中でリース契約を打ち切ることになったため、契約違反でリース会社から合計24万2000ドル(日本円で約2180万円)の損害賠償を求める訴えを起こされたのだ。借金返済のために世界各地に所有していた豪邸に続き、ついに高級車を手放さざるを得なくなった。
財政難で窮地に立たされているニコラスだが、2010年4月、米TMZ.comによれば、アメリカのルイジアナ州、ニュー・オリンズに高さ約2.7メートルの白いピラミッド型の墓を自分用に購入しているようだ。なぜピラミッド型を選んだのかは定かではないが、ニコラスが伝説の秘宝を追う歴史学者/冒険家に扮したアドベンチャー大作『ナショナル・トレジャー』シリーズにヒントを得たのではないかと言われている。しかし、ニコラスは現在、1400万ドル(日本円で約12億8000万円)という巨額の未納税金を抱えている。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 生い立ち
1.2 キャリア
2 私生活
2.1 家族
2.2 趣味
2.3 金銭
3 出演作品
4 主な受賞
5 脚注
6 外部リンク
来歴 [編集]
生い立ち [編集]
カリフォルニア州ロングビーチ生まれ。父親のオーガスト・コッポラはイタリア系で大学教授兼作家、母親のジョイ・フォーゲルザングはドイツ系のバレエ・ダンサー。兄(マーク、クリストファー)がおり、クリストファーは映画監督をしている。
父方の祖父は音楽家・作曲家のカーマイン・コッポラ、祖母は女優のイタリア・ペニーニ。叔父に映画監督のフランシス・フォード・コッポラ、叔母に女優のタリア・シャイア、いとこにソフィア・コッポラ、ローマン・コッポラ、ジェイソン・シュワルツマンがいる。
ビバリーヒルズ高校中退。
日本語学校に通っていた経験があるため日本語がある程度話せる。映画でもしばしば披露する他、来日時には日本語で挨拶することもある。
キャリア [編集]
1981年に『初体験/リッジモント・ハイ』でニコラス・コッポラとしてデビュー。その後、現在の芸名に変更。芸名の「ケイジ」の由来はマーベル・コミック社のコミック「パワーマン」の主人公ルーク・ケイジから。若い頃はコッポラ監督の甥と呼ばれることを嫌がっていた。オーディションを受けても、製作者たちの浴びせる質問は彼についてではなく、叔父フランシスのことばかりだったという。本名のコッポラを名乗らず、あえて“ケイジ”の芸名を使うことにしたのも、そのためと言われている。
1995年の『リービング・ラスベガス』でアカデミー主演男優賞を受賞。オスカー受賞後は、芸術的な映画に留まらず、大作映画にも積極的に出演した。同業のショーン・ペンはケイジの大作映画出演をいぶかしく思っていると発言した[1]。
サターン・フィルムズ(Saturn Films)という映画制作会社を設立。2000年に『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』に製作者として参加し、2002年には『ソニー』(sonny)で監督兼プロデューサーを務めた。その後も、映画制作会社サターン・フィルムズの共同経営者として、いくつかの作品をプロデュースしている。
私生活 [編集]
家族 [編集]
1995年4月8日に女優のパトリシア・アークエットと結婚したが2001年5月18日に離婚。2002年8月10日にはリサ・マリー・プレスリーと再婚したが、同年11月15日に離婚を申請し、2004年5月26日に離婚。ちなみに、ケイジはプレスリーのコレクターでもある。
2004年7月30日にロサンゼルスの寿司店にてウエイトレスをしていた韓国系アメリカ人女性アリス・キムと再々婚した。2005年10月3日に長男カル=エル・コッポラ・ケイジが誕生。名前のカル=エルとは『スーパーマン』が生まれた時の名前である。
趣味 [編集]
非常に車好きでフェラーリの現行車種を全車種(限定車のエンツォ等含む)所有している。また、イランのモハンマド・レザー・パフラヴィー元国王が所有していたランボルギーニを所有していたこともある。
またアメリカンコミック好きでも知られ、自身の芸名はもとより息子にカルエル(スーパーマンの本名)と名づけるほどである。彼のコミックコレクションをオークションにかけた際に出品された400品目の中にはアクションコミック1号やウィズコミック1号、ディテクティブコミック38号、オールスターコミック3号等のレアアイテムが目白押しで総落札額は160万ドルに達した。また日本の成年コミックに並々ならぬ興味を示しており「論ずるに値する」と述べている。
また、カルト映画も好きで、同じ趣味のラモーンズのリーダーのジョーイ・ラモーンとは親友だった。そのため、ケイジは彼が好きだったカルト映画『ウィッカーマン』を自費で2007年にリメイクし、ラストに「ジョーイ・ラモーンに捧ぐ」とクレジットした。しかしそのため、ラジー賞主演男優部門をはじめ5部門にノミネートされる結果となった[2]。
ガレージキットのコレクターでもあり、まんだらけを過去4回訪れている。そのたびに段ボール数箱分の買い物をするため、ニコラスが来た日は売り上げが跳ね上がるという。過去一番大きな買い物は高さ1.5メートルのガメラ(40万円)。[3]
金銭 [編集]
ハリウッドを代表する俳優であるニコラス・ケイジは現在、映画1本の出演料が15億円と言われている。
かなりの浪費家として知られ、古城、高級車、恐竜の化石や骨、コミックコレクションなどを派手に購入していたニコラスだが、その浪費癖から財政難になってしまい、2009年8月には200万ドル(日本円で約1億8000万円)の債務不履行で銀行から訴えられているほか、2007年と2008年分の未納分税金や延滞分利子および罰金などで630万ドル(日本円で約5億6700万円)を滞納していることが明らかになった。ニコラスは元ビジネス・マネージャーのサミュエル・レビンの不適格なアドバイスが財政難の原因と釈明し、彼を相手取って2000万ドル(日本円で約18億円)の訴訟をおこしている。
2009年11月、ピープル誌によれば、ニコラスがニューオリンズのフレンチ・クォーターの一角に所有していた2軒の家が競売で売られた。この2軒は税金の滞納で差し押さえられていたもので、落札者はニコラスがローンを組んでいるリージョンス銀行。2軒ともこの銀行が落札したが、他に入札者はいなかったという。資産価値は合計で680万ドル(日本円で約6億1200万円)だが、落札金額は450万ドル(日本円で約4億500万円)とお買い得だったようだ。ニコラスは他にも担保としてラスベガス近郊の高級住宅地のベルエアに所有する豪邸を1100万ドル、マリブの豪邸を1000万ドルで競売に出したが買い手が付かず、銀行に差し押さえられた。さらにロードアイランドにある豪邸も差し押さえられ、オークションで競売にかけられている。
大の車マニアとしても有名でフェラーリの現行モデルはほとんど所有しているニコラスだが、2010年3月に高級車のロールス・ロイスのリースを巡って訴えられた。ニコラスは2007年に55万ドル(日本円で約4950万円)相当の1964年型のロールス・ロイスSCを月々7663ドル(日本円で約69万円)で5年リースし、その4ヵ月後には24万5000ドル(日本円で約2200万円)相当の2002年型も月々3630ドル(日本円で約33万円)で5年のリース契約を結んだ。ところが税金滞納などの財政難により、月々の支払いができず、2台とも途中でリース契約を打ち切ることになったため、契約違反でリース会社から合計24万2000ドル(日本円で約2180万円)の損害賠償を求める訴えを起こされたのだ。借金返済のために世界各地に所有していた豪邸に続き、ついに高級車を手放さざるを得なくなった。
財政難で窮地に立たされているニコラスだが、2010年4月、米TMZ.comによれば、アメリカのルイジアナ州、ニュー・オリンズに高さ約2.7メートルの白いピラミッド型の墓を自分用に購入しているようだ。なぜピラミッド型を選んだのかは定かではないが、ニコラスが伝説の秘宝を追う歴史学者/冒険家に扮したアドベンチャー大作『ナショナル・トレジャー』シリーズにヒントを得たのではないかと言われている。しかし、ニコラスは現在、1400万ドル(日本円で約12億8000万円)という巨額の未納税金を抱えている。
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2011年01月08日
ダニー・ケイ
ダニー・ケイ(Danny Kaye、1913年1月18日 - 1987年3月3日)は、アメリカ合衆国の俳優、歌手、コメディアン。本名デーヴィッド・ダニエル・カミンスキー(David Daniel Kaminsky)。
目次 [非表示]
1 略歴
1.1 生い立ち
1.2 映画界入り
1.3 野球好き
1.4 ユニセフ親善大使
1.5 指揮者
1.6 死去
2 主な出演作品
3 関連項目
4 外部リンク
略歴 [編集]
生い立ち [編集]
ニューヨーク州のブルックリンにて、ウクライナからのユダヤ系移民の親の元に生まれる。幼い頃から歌とおしゃべりが好きで、高校中退後劇団に入り下積みを経験し、1939年の『The Straw Hat Revue』でブロードウェイデビューを果たす。
映画界入り [編集]
その後、1941年のブロードウェイ・ミュージカル『レイディ・イン・ザ・ダーク(Lady in the Dark)』に出演し、さらにわずか39秒で50人のロシア人作曲家を早口で暗唱する『チャイコフスキー(Tchaikovsky and Other Russians)』という曲で大絶賛を浴びた。
さらに、彼の才能に注目した映画製作者サミュエル・ゴールドウィンの誘いにより映画界入りを果たし、1944年に『ダニー・ケイの新兵さん』で映画デビューを飾る。 以降、『ダニー・ケイの天国と地獄』や『虹を掴む男』、『ホワイト・クリスマス』、『五つの銅貨』等、数々の映画に出演。独特の早口で歌う様やコミカルな演技で人気を博した。
野球好き [編集]
一時期、マリナーズの共同オーナーであった。
ユニセフ親善大使 [編集]
1954年には国連のユニセフに参加、以後亡くなるまで親善大使として尽力する。その活動と芸達者ぶりが評価され、同年のアカデミー賞では特別賞を受賞した。
その後、活躍の舞台を映画からテレビやブロードウェイ・ミュージカルに移行。1963年にスタートしたテレビのバラエティー『ダニー・ケイ・ショー』ではその年のエミー賞を受賞。またユニセフ親善大使としては世界各国のチャリティ・ショーのステージに立ち続けた。
また、度々お忍びで来日しては日本の福祉施設を回っていたが、それを表には出さず、マスコミに見つかっても「日本のお寺をじっくり見たかったんです」とごまかしていたという。この姿勢に感銘を受けたのが坂本九で、彼も地方公演の合間を縫って色々な福祉施設を訪れることを心がけていた。
指揮者 [編集]
ダニーは楽譜が読めなかったが、オーケストラの指揮者としても活動し、ヨーロッパで1973年にストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団に客演した際のライヴ録音(チャイコフスキーのくるみ割り人形組曲-現在BISレーベルのストックホルム・フィル75周年記念ボックスに収録。)が残されている。
本国アメリカでは、1981年9月に行なったニューヨーク・フィルハーモニックとの演奏会が語り継がれている。同楽団の常任指揮者であったズービン・メータの物真似をしたり、ハエ叩きを持ってリムスキー=コルサコフの『熊蜂の飛行』を指揮したりと、得意のコミカルな演技で聴衆を楽しませた(尚、この演奏会の模様は『ダニー・ケイとニューヨーク・フィルの夕べ』というタイトルでビデオやレーザーディスクが発売されていたが、現在は廃盤であり、中古品が高値で取り引きされている)。
死去 [編集]
1981年のアカデミー賞では、長年のユニセフの活動に対してジーン・ハーショルト友愛賞を授与された。1987年、ロサンゼルスにて心臓発作で死去。74歳。ニューヨーク州ウエストチェスター郡ヴァルハラにあるケンシコ墓地(Kensico Cemetery)に埋葬された。
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1 略歴
1.1 生い立ち
1.2 映画界入り
1.3 野球好き
1.4 ユニセフ親善大使
1.5 指揮者
1.6 死去
2 主な出演作品
3 関連項目
4 外部リンク
略歴 [編集]
生い立ち [編集]
ニューヨーク州のブルックリンにて、ウクライナからのユダヤ系移民の親の元に生まれる。幼い頃から歌とおしゃべりが好きで、高校中退後劇団に入り下積みを経験し、1939年の『The Straw Hat Revue』でブロードウェイデビューを果たす。
映画界入り [編集]
その後、1941年のブロードウェイ・ミュージカル『レイディ・イン・ザ・ダーク(Lady in the Dark)』に出演し、さらにわずか39秒で50人のロシア人作曲家を早口で暗唱する『チャイコフスキー(Tchaikovsky and Other Russians)』という曲で大絶賛を浴びた。
さらに、彼の才能に注目した映画製作者サミュエル・ゴールドウィンの誘いにより映画界入りを果たし、1944年に『ダニー・ケイの新兵さん』で映画デビューを飾る。 以降、『ダニー・ケイの天国と地獄』や『虹を掴む男』、『ホワイト・クリスマス』、『五つの銅貨』等、数々の映画に出演。独特の早口で歌う様やコミカルな演技で人気を博した。
野球好き [編集]
一時期、マリナーズの共同オーナーであった。
ユニセフ親善大使 [編集]
1954年には国連のユニセフに参加、以後亡くなるまで親善大使として尽力する。その活動と芸達者ぶりが評価され、同年のアカデミー賞では特別賞を受賞した。
その後、活躍の舞台を映画からテレビやブロードウェイ・ミュージカルに移行。1963年にスタートしたテレビのバラエティー『ダニー・ケイ・ショー』ではその年のエミー賞を受賞。またユニセフ親善大使としては世界各国のチャリティ・ショーのステージに立ち続けた。
また、度々お忍びで来日しては日本の福祉施設を回っていたが、それを表には出さず、マスコミに見つかっても「日本のお寺をじっくり見たかったんです」とごまかしていたという。この姿勢に感銘を受けたのが坂本九で、彼も地方公演の合間を縫って色々な福祉施設を訪れることを心がけていた。
指揮者 [編集]
ダニーは楽譜が読めなかったが、オーケストラの指揮者としても活動し、ヨーロッパで1973年にストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団に客演した際のライヴ録音(チャイコフスキーのくるみ割り人形組曲-現在BISレーベルのストックホルム・フィル75周年記念ボックスに収録。)が残されている。
本国アメリカでは、1981年9月に行なったニューヨーク・フィルハーモニックとの演奏会が語り継がれている。同楽団の常任指揮者であったズービン・メータの物真似をしたり、ハエ叩きを持ってリムスキー=コルサコフの『熊蜂の飛行』を指揮したりと、得意のコミカルな演技で聴衆を楽しませた(尚、この演奏会の模様は『ダニー・ケイとニューヨーク・フィルの夕べ』というタイトルでビデオやレーザーディスクが発売されていたが、現在は廃盤であり、中古品が高値で取り引きされている)。
死去 [編集]
1981年のアカデミー賞では、長年のユニセフの活動に対してジーン・ハーショルト友愛賞を授与された。1987年、ロサンゼルスにて心臓発作で死去。74歳。ニューヨーク州ウエストチェスター郡ヴァルハラにあるケンシコ墓地(Kensico Cemetery)に埋葬された。
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2011年01月08日
グレン・クローズ
グレン・クローズ(Glenn Close、1947年3月19日 - )は、アメリカ合衆国コネティカット州出身の女優である。
目次 [非表示]
1 略歴
2 私生活
3 主な出演作品
3.1 映画
3.2 TV
4 関連項目
5 外部リンク
略歴 [編集]
医師であった父親の仕事の関係で、スイスやアフリカで育った。ウィリアム・アンド・メアリー大学で演劇を学び、数々の舞台に立つ。1974年から舞台女優としてキャリアをスタートさせる。1982年に映画デビュー作『ガープの世界』でアカデミー助演女優賞にノミネートされ、LA批評家協会賞(助演女優賞)受賞。その後出演した『危険な情事』のストーカーなどの悪女役の印象が強いが、これまでトニー賞を3回受賞し、アカデミー賞には5回ノミネートされている演技派である。1997年にはウォルト・ディズニー製作の『101』でアクの強い悪女クルエラ・ド・ヴィルを怪演。それまで演じたストーカーなどの悪女とは違ったユーモラスな演技を披露した。女優としての顔の他ドキュメンタリー作品にもナレーターや本人として出演している。
ブロードウェイにおいては1984年に初のトニー賞を獲得して以来、舞台女優としてのキャリアも着々と築き上げて、1995年には『サンセット大通り』のミュージカル版においてノーマ・デズモンドを熱演し3度目のトニー賞のミュージカル主演女優賞を獲得している。舞台ではオフ・ブロードウェイにも多数出演。テレビ界へも進出しており、現在よく知られているのは『ダメージ』の女弁護士、パティ・ヒューズ役である。その他人気テレビアニメ『ザ・シンプソンズ』では、メインキャラクターで一家の大黒柱、ホーマー・シンプソンの生き別れた母親役の声で数回ゲスト出演している。これまで数回来日したことがあるが2008年3月にテレビドラマ『ダメージ』のプロモーションのため、17年ぶりに再来日。NHK放送センターにて来日記者会見を開いた。
私生活 [編集]
これまで二度離婚しているが、プロデューサーとの間に一女をもうけており、現在はバイオテクノロジー関連の企業社長と再婚している。また、女優のメリル・ストリープとは公私ともに仲が良いらしく、彼女との共演作品もいくつかある。
目次 [非表示]
1 略歴
2 私生活
3 主な出演作品
3.1 映画
3.2 TV
4 関連項目
5 外部リンク
略歴 [編集]
医師であった父親の仕事の関係で、スイスやアフリカで育った。ウィリアム・アンド・メアリー大学で演劇を学び、数々の舞台に立つ。1974年から舞台女優としてキャリアをスタートさせる。1982年に映画デビュー作『ガープの世界』でアカデミー助演女優賞にノミネートされ、LA批評家協会賞(助演女優賞)受賞。その後出演した『危険な情事』のストーカーなどの悪女役の印象が強いが、これまでトニー賞を3回受賞し、アカデミー賞には5回ノミネートされている演技派である。1997年にはウォルト・ディズニー製作の『101』でアクの強い悪女クルエラ・ド・ヴィルを怪演。それまで演じたストーカーなどの悪女とは違ったユーモラスな演技を披露した。女優としての顔の他ドキュメンタリー作品にもナレーターや本人として出演している。
ブロードウェイにおいては1984年に初のトニー賞を獲得して以来、舞台女優としてのキャリアも着々と築き上げて、1995年には『サンセット大通り』のミュージカル版においてノーマ・デズモンドを熱演し3度目のトニー賞のミュージカル主演女優賞を獲得している。舞台ではオフ・ブロードウェイにも多数出演。テレビ界へも進出しており、現在よく知られているのは『ダメージ』の女弁護士、パティ・ヒューズ役である。その他人気テレビアニメ『ザ・シンプソンズ』では、メインキャラクターで一家の大黒柱、ホーマー・シンプソンの生き別れた母親役の声で数回ゲスト出演している。これまで数回来日したことがあるが2008年3月にテレビドラマ『ダメージ』のプロモーションのため、17年ぶりに再来日。NHK放送センターにて来日記者会見を開いた。
私生活 [編集]
これまで二度離婚しているが、プロデューサーとの間に一女をもうけており、現在はバイオテクノロジー関連の企業社長と再婚している。また、女優のメリル・ストリープとは公私ともに仲が良いらしく、彼女との共演作品もいくつかある。
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2011年01月07日
2011年01月07日
川原誠也
川原 誠也(かわはら せいや、男性、1988年1月18日 - )は、日本の総合格闘家。神奈川県横浜市出身。パンクラスP's LAB横浜所属。
打撃を得意とするストライカー。
目次 [非表示]
1 来歴
2 戦績
2.1 プロ総合格闘技
2.2 アマチュア総合格闘技
3 脚注
4 関連項目
5 外部リンク
来歴 [編集]
小学生の時に極真会館・横浜港南道場に入門。高校3年時にパンクラスP's LAB横浜に入門。
2007年12月1日、CAGE FORCE 05のプレリミナリー・ファイトで荒川裕志(KILLER BEE)と対戦し、判定勝ち。
2008年1月30日、パンクラスデビューし、山澤勇紀と対戦。開始28秒右ハイキックでKO勝ち。
活躍を見込まれ、宇野薫からCAGE FORCEバンタム級トーナメント出場を申しだされたが、当初の予定通り2008年3月23日のパンクラス・ネオブラッドトーナメント・バンタム級で川名蘭輝と対戦することになったもの、練習中の負傷により欠場となった。
2008年6月1日、パンクラスで柳澤雅樹と対戦し、開始41秒パウンドで失神させ、KO勝ち。
2008年12月7日、パンクラスで井上学と初代バンタム級キング・オブ・パンクラス決定戦で対戦。2R4分44秒でチョークスリーパーで一本負け。王座獲得に失敗すると同時にプロ初黒星となった。
2009年3月20日、「戦極 〜第七陣〜」で戦極フェザー級グランプリ1回戦に出場、ニック・デニスにTKO負け。
2010年7月4日、バンタム級キング・オブ・パンクラスタイトルマッチで王者井上学に挑戦予定であったが、自身の鼻骨骨折により延期となった[1]。10月3日のパンクラスに出場予定であったが、右足外側靭帯損傷により欠場となった[2]。
戦績 [編集]
プロ総合格闘技 [編集]
総合格闘技 戦績
11 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
9 勝 4 1 4 0 0 0
2 敗 1 1 0 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
○ 赤井太志朗 5分3R終了 判定3-0 パンクラス PANCRASE 2010 PASSION TOUR 2010年2月7日
○ 佐々木亮太 5分2R終了 判定3-0 パンクラス PANCRASE 2009 CHANGING TOUR 2009年10月25日
○ 曹竜也 5分2R終了 判定3-0 パンクラス PANCRASE 2009 CHANGING TOUR 北岡悟凱旋興行 2009年6月7日
× ニック・デニス 1R 2:36 TKO(タオル投入) 戦極 〜第七陣〜
【フェザー級グランプリ2009 1回戦】 2009年3月20日
× 井上学 2R 4:44 チョークスリーパー パンクラス PANCRASE 2008 SHINING TOUR
【初代バンタム級キング・オブ・パンクラス決定戦】 2008年12月7日
○ 今泉堅太郎 1R 2:09 TKO(頭部カット) パンクラス PANCRASE 2008 SHINING TOUR 2008年8月27日
○ 柳澤雅樹 1R 0:41 TKO(パウンド) パンクラス PANCRASE 2008 SHINING TOUR 2008年6月1日
○ 山澤勇紀 1R 0:28 KO(右ハイキック) パンクラス PANCRASE 2008 SHINING TOUR 2008年1月30日
○ 荒川裕志 5分2R終了 判定3-0 CAGE FORCE 05【プレリミナリー・ファイト】 2007年12月1日
○ 西村広和 1R 4:42 TKO(パウンド) DEMOLITION 2007年8月19日
○ 笹野勇一 1R 4:17 フロントチョーク DEMOLITION(MULTIPLEX 2007) 2007年5月13日
アマチュア総合格闘技 [編集]
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
○ 船越怜 3分2R終了 判定3-0 第20回パンクラスゲート×2 2007年2月25日
△ 清水隼人 3分2R終了 判定0-1 第18回パンクラスゲート×2 2006年10月29日
○ 松村浩之 3分2R終了 判定3-0 第17回パンクラスゲート×2 2006年8月13日
脚注 [編集]
^ [パンクラス] 川原が負傷欠場。井上学との王座戦延期:7.4 有明 BoutReview 2010年6月26日
^ 【パンクラス】10・3ケージフォースとの対抗戦第二弾!全対戦カード決まる 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年9月27日
打撃を得意とするストライカー。
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1 来歴
2 戦績
2.1 プロ総合格闘技
2.2 アマチュア総合格闘技
3 脚注
4 関連項目
5 外部リンク
来歴 [編集]
小学生の時に極真会館・横浜港南道場に入門。高校3年時にパンクラスP's LAB横浜に入門。
2007年12月1日、CAGE FORCE 05のプレリミナリー・ファイトで荒川裕志(KILLER BEE)と対戦し、判定勝ち。
2008年1月30日、パンクラスデビューし、山澤勇紀と対戦。開始28秒右ハイキックでKO勝ち。
活躍を見込まれ、宇野薫からCAGE FORCEバンタム級トーナメント出場を申しだされたが、当初の予定通り2008年3月23日のパンクラス・ネオブラッドトーナメント・バンタム級で川名蘭輝と対戦することになったもの、練習中の負傷により欠場となった。
2008年6月1日、パンクラスで柳澤雅樹と対戦し、開始41秒パウンドで失神させ、KO勝ち。
2008年12月7日、パンクラスで井上学と初代バンタム級キング・オブ・パンクラス決定戦で対戦。2R4分44秒でチョークスリーパーで一本負け。王座獲得に失敗すると同時にプロ初黒星となった。
2009年3月20日、「戦極 〜第七陣〜」で戦極フェザー級グランプリ1回戦に出場、ニック・デニスにTKO負け。
2010年7月4日、バンタム級キング・オブ・パンクラスタイトルマッチで王者井上学に挑戦予定であったが、自身の鼻骨骨折により延期となった[1]。10月3日のパンクラスに出場予定であったが、右足外側靭帯損傷により欠場となった[2]。
戦績 [編集]
プロ総合格闘技 [編集]
総合格闘技 戦績
11 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
9 勝 4 1 4 0 0 0
2 敗 1 1 0 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
○ 赤井太志朗 5分3R終了 判定3-0 パンクラス PANCRASE 2010 PASSION TOUR 2010年2月7日
○ 佐々木亮太 5分2R終了 判定3-0 パンクラス PANCRASE 2009 CHANGING TOUR 2009年10月25日
○ 曹竜也 5分2R終了 判定3-0 パンクラス PANCRASE 2009 CHANGING TOUR 北岡悟凱旋興行 2009年6月7日
× ニック・デニス 1R 2:36 TKO(タオル投入) 戦極 〜第七陣〜
【フェザー級グランプリ2009 1回戦】 2009年3月20日
× 井上学 2R 4:44 チョークスリーパー パンクラス PANCRASE 2008 SHINING TOUR
【初代バンタム級キング・オブ・パンクラス決定戦】 2008年12月7日
○ 今泉堅太郎 1R 2:09 TKO(頭部カット) パンクラス PANCRASE 2008 SHINING TOUR 2008年8月27日
○ 柳澤雅樹 1R 0:41 TKO(パウンド) パンクラス PANCRASE 2008 SHINING TOUR 2008年6月1日
○ 山澤勇紀 1R 0:28 KO(右ハイキック) パンクラス PANCRASE 2008 SHINING TOUR 2008年1月30日
○ 荒川裕志 5分2R終了 判定3-0 CAGE FORCE 05【プレリミナリー・ファイト】 2007年12月1日
○ 西村広和 1R 4:42 TKO(パウンド) DEMOLITION 2007年8月19日
○ 笹野勇一 1R 4:17 フロントチョーク DEMOLITION(MULTIPLEX 2007) 2007年5月13日
アマチュア総合格闘技 [編集]
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
○ 船越怜 3分2R終了 判定3-0 第20回パンクラスゲート×2 2007年2月25日
△ 清水隼人 3分2R終了 判定0-1 第18回パンクラスゲート×2 2006年10月29日
○ 松村浩之 3分2R終了 判定3-0 第17回パンクラスゲート×2 2006年8月13日
脚注 [編集]
^ [パンクラス] 川原が負傷欠場。井上学との王座戦延期:7.4 有明 BoutReview 2010年6月26日
^ 【パンクラス】10・3ケージフォースとの対抗戦第二弾!全対戦カード決まる 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年9月27日
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2011年01月07日
川尻達也
川尻 達也(かわじり たつや、男性、1978年5月8日 - )は、日本の総合格闘家。茨城県稲敷郡江戸崎町(現・稲敷市)出身。茨城県立土浦第三高等学校、中央学院大学卒業。元修斗世界ウェルター級王者。
強靭な肉体を生かした、寝ても立っても殴る無骨なスタイルを得意とする。
目次 [非表示]
1 来歴
2 戦績
2.1 総合格闘技
2.2 キックボクシング
3 獲得タイトル
4 出典
5 関連項目
6 外部リンク
来歴 [編集]
PRIDE.1での高田延彦vsヒクソン・グレイシー戦を見たことと、桜井"マッハ"速人に憧れて総合格闘家を志す。
アマチュア時代に三崎和雄にKO負けしたことがある。
2000年4月12日、修斗にてプロデビュー。タクミにチョークスリーパーで一本負け。デビュー戦で敗れたことで、1年間をかけて徹底的に肉体改造した。
2002年、修斗の新人王トーナメント ウェルター級に出場し、優勝を果たした。
2002年12月14日、修斗でビトー・シャオリン・ヒベイロと対戦し、0-3の判定負け。腕関節を極められ耐え抜いたため負傷した。
2003年3月30日、アブダビコンバット77kg未満級日本予選に出場。準決勝で鹿又智成にポイント負け。
2004年12月14日、東京・代々木第二体育館にて、ビトー・シャオリン・ヒベイロと世界ウェルター級タイトルマッチで再戦。終始川尻が主導権を握り、2R3分10秒パウンドでTKO勝ちを収め、第8代修斗世界ウェルター級王者となった。
修斗王者になった後、より高みを目指すためPRIDE参戦。2005年5月22日、PRIDE 武士道 -其の七-でキム・インソクにパウンドでTKO勝ち。
2005年9月25日、PRIDE 武士道 -其の九-で行われたライト級GPの1回戦で五味隆典と対戦し、チョークスリーパーで一本負け。この試合は年間ベストバウトに選ばれるなど、周囲からも高く評価された。また試合後「負けてもリベンジする。それが僕の格闘技人生」、「自分より強い人がいることに驚いた」とコメントした[1]。
2006年2月17日、東京・代々木第二体育館にて、修斗世界ウェルター級ランキング1位のヨアキム・ハンセンを相手に初防衛戦を行う。試合開始直後、ハンセンのローブローを受けてしまい、このダメージにより川尻は試合続行不可能となり、反則勝ちによる初防衛となった。
2006年12月31日、『PRIDE 男祭り 2006』にて、ギルバート・メレンデスと対戦。激しい打撃の応酬戦を展開したが判定負け。
大晦日の試合で左手親指を負傷していたが、2007年1月18日の練習で再び同箇所を負傷、左母指中手骨基部骨折で全治2か月と診断された。骨折により期限内の防衛戦が不可能になったことにより修斗世界ウェルター級王座を2007年1月24日付けで返上した[2]。
2007年12月31日、1年ぶりの復帰戦となったやれんのか! 大晦日! 2007でルイス・アゼレードと対戦し、3-0の判定勝ち。
2008年3月15日、DREAM.1のライト級グランプリ1回戦でブラックマンバと対戦し、3-0の判定勝ち。
2008年5月11日、DREAM.3のライト級グランプリ2回戦でルイス・ブスカペと対戦し、判定勝ち。閉会式のリング上で、同ジム所属の石田光洋に一本勝ちした宇野薫に対戦要求を行った[3](4月4日の記者会見で主催者推薦枠でのグランプリ参戦が発表された宇野に対し、「言いたいことは原稿用紙10枚分くらいある」と不満を漏らしていた[4])。
2008年7月21日、DREAM.5のライト級グランプリ準決勝でエディ・アルバレスと対戦。互角に渡り合いアルバレスをKO寸前に追い込む場面もあったがパウンドでTKO負けを喫した。
2008年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜で武田幸三と初挑戦となるK-1ルールで対戦。右フック、右跳び膝蹴り、左フックで1R3度のダウンを奪いTKO勝ちを収めた。
2009年3月8日、DREAM.7でロス・エバネスと対戦し、チョークスリーパーで一本勝ちを収めた。試合後のリング上でJ.Z.カルバンとの次期挑戦者決定戦での対戦希望を表明した[5]。
2009年5月26日、DREAM.9でJ.Z.カルバンと対戦し、判定勝ち。試合後、リング上でのマイクアピールで「二人で格闘技界を盛り上げませんか?魔裟斗選手、僕にもガッツンガッツン面白い打ち合いが出来るんでよろしくお願いします」と魔裟斗に対戦を呼びかけた[6]。
2009年7月13日、K-1 WORLD MAX 2009 FINAL8で魔裟斗と対戦し、2Rタオル投入によるTKO負け。
2009年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜のDREAM vs SRC 対抗戦で横田一則と対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。
2010年7月10日、DREAM.15のDREAMライト級タイトルマッチで青木真也と対戦し、アキレス腱固めで一本負けを喫し王座獲得ならず。青木の関節技によるダメージで自ら歩いて退場できないほどであった。
2010年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜でジョシュ・トムソンと対戦し、3-0の判定勝ちを収めた[7]。
戦績 [編集]
総合格闘技 [編集]
総合格闘技 戦績
35 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
27 勝 11 6 9 1 2 0
6 敗 1 3 2 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
○ ジョシュ・トムソン 5分3R終了 判定3-0 Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜 2010年12月31日
× 青木真也 1R 1:53 アキレス腱固め DREAM.15
【DREAMライト級タイトルマッチ】 2010年7月10日
○ 横田一則 5分3R終了 判定3-0 Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜 2009年12月31日
○ メルカ・バラクーダ 1R 3:48 TKO(パウンド) DREAM.11 フェザー級グランプリ2009 決勝戦 2009年10月6日
○ J.Z.カルバン 2R(10分/5分)終了 判定3-0 DREAM.9 フェザー級グランプリ2009 2nd ROUND 2009年5月26日
○ ロス・エバネス 1R 4:03 チョークスリーパー DREAM.7 フェザー級グランプリ2009 開幕戦 2009年3月8日
× エディ・アルバレス 1R 7:35 TKO(レフェリーストップ:パウンド) DREAM.5 ライト級グランプリ2008 決勝戦
【ライト級GP 準決勝】 2008年7月21日
○ ルイス・ブスカペ 2R(10分/5分)終了 判定3-0 DREAM.3 ライト級グランプリ2008 2nd ROUND
【ライト級GP 2回戦】 2008年5月11日
○ ブラックマンバ 2R(10分/5分)終了 判定3-0 DREAM.1 ライト級グランプリ2008 開幕戦
【ライト級GP 1回戦】 2008年3月15日
○ ルイス・アゼレード 2R(10分/5分)終了 判定3-0 やれんのか! 大晦日! 2007 2007年12月31日
× ギルバート・メレンデス 2R(10分/5分)終了 判定0-3 PRIDE 男祭り 2006 -FUMETSU- 2006年12月31日
○ ペール・エクルンド 1R 4:12 TKO(レフェリーストップ:バックマウントパンチ) 修斗「Champion Carnival」 2006年10月14日
○ クリス・ブレナン 1R 0:29 KO(左膝蹴り) PRIDE 武士道 -其の十二- 2006年8月26日
○ チャールズ・"クレイジー・ホース"・ベネット 1R 2:30 膝十字固め PRIDE 武士道 -其の十一- 2006年6月4日
○ ヨアキム・ハンセン 1R 0:08 反則失格(ローブロー) 修斗「SHOOTO The Victory of The Truth」
【世界ウェルター級チャンピオンシップ】 2006年2月17日
× 五味隆典 1R 7:42 チョークスリーパー PRIDE 武士道 -其の九-
【ライト級GP 1回戦】 2005年9月25日
○ ルイス・ブスカペ 2R(10分/5分)終了 判定3-0 PRIDE 武士道 -其の八- 2005年7月17日
○ キム・インソク 1R 3:28 TKO(タオル投入) PRIDE 武士道 -其の七- 2005年5月22日
○ ヤニ・ラックス 1R 4:42 TKO(レフェリーストップ:パウンド) 修斗 in 福岡 玄海沖地震被災地チャリティイベント 2005年4月23日
○ ビトー・シャオリン・ヒベイロ 2R 3:11 TKO(レフェリーストップ:パウンド) 修斗「15th Anniversary」
【世界ウェルター級チャンピオンシップ】 2004年12月14日
○ ミンダウガス・ラウリナイティス 2R 2:00 TKO(レフェリーストップ:バックマウントパンチ) 修斗 2004年9月26日
△ 宇野薫 5分3R終了 判定1-0 修斗 2004年3月22日
○ 雷暗暴 1R 4:21 TKO(レフェリーストップ:パウンド) 修斗 2003年12月14日
○ イーブス・エドワーズ 5分3R終了 判定3-0 修斗「世界三大チャンピオンシップ」 2003年8月10日
○ タクミ 1R 4:11 TKO(レフェリーストップ:右ストレート) 修斗「Shootor's Dream II」 2003年5月30日
× ビトー・シャオリン・ヒベイロ 5分3R終了 判定0-3 修斗 2002年12月14日
○ 尾松賢 1R 4:40 腕ひしぎ十字固め 修斗
【2002年度新人王トーナメント ウェルター級 決勝】 2002年10月27日
○ 椎木努 1R 4:42 チョークスリーパー 修斗
【2002年度新人王トーナメント ウェルター級 準決勝】 2002年7月19日
○ 杉江"アマゾン"大輔 2R 4:19 TKO(レフェリーストップ:マウントパンチ) 修斗「SHOOTO GIG EAST 09」 2002年5月28日
○ 山崎剛 5分2R終了 判定3-0 修斗「WANNA SHOOTO JAPAN 2002」 2002年4月21日
○ 滝田J太郎 2R 1:22 TKO(ドクターストップ:左目負傷) 修斗「TREASURE HUNT 02」
【2002年度新人王トーナメント ウェルター級 1回戦】 2002年3月13日
○ 高田和道 1R 3:03 腕ひしぎ三角固め 修斗「SHOOTO TO THE TOP」 2001年9月27日
○ 鈴木洋平 1R 2:42 チョークスリーパー 修斗「SHOOTO GIG EAST Vol.2」 2001年5月22日
△ 鈴木洋平 5分2R終了 判定0-1 修斗「WANNA SHOOTO 2001」 2001年4月8日
× タクミ 1R 2:44 チョークスリーパー 修斗「R.E.A.D. 〜2000 SHOOTO〜 "UM CAMINHO PARA O CAMPEAO"」 2000年4月12日
キックボクシング [編集]
キックボクシング 戦績
2試合 (T)KO 判定 その他 引き分け 無効試合
1勝 1 0 0 0 0
1敗 1 0 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× 魔裟斗 2R 1:43 TKO(タオル投入) K-1 WORLD MAX 2009 World Championship Tournament FINAL8 2009年7月13日
○ 武田幸三 1R 2:47 KO(3ノックダウン:左フック) Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜 2008年12月31日
獲得タイトル [編集]
第8代修斗世界ウェルター級王座(2004年)
修斗ウェルター級新人王(2002年)
アマチュア修斗東日本オープントーナメント ウェルター級 優勝(1999年)
強靭な肉体を生かした、寝ても立っても殴る無骨なスタイルを得意とする。
目次 [非表示]
1 来歴
2 戦績
2.1 総合格闘技
2.2 キックボクシング
3 獲得タイトル
4 出典
5 関連項目
6 外部リンク
来歴 [編集]
PRIDE.1での高田延彦vsヒクソン・グレイシー戦を見たことと、桜井"マッハ"速人に憧れて総合格闘家を志す。
アマチュア時代に三崎和雄にKO負けしたことがある。
2000年4月12日、修斗にてプロデビュー。タクミにチョークスリーパーで一本負け。デビュー戦で敗れたことで、1年間をかけて徹底的に肉体改造した。
2002年、修斗の新人王トーナメント ウェルター級に出場し、優勝を果たした。
2002年12月14日、修斗でビトー・シャオリン・ヒベイロと対戦し、0-3の判定負け。腕関節を極められ耐え抜いたため負傷した。
2003年3月30日、アブダビコンバット77kg未満級日本予選に出場。準決勝で鹿又智成にポイント負け。
2004年12月14日、東京・代々木第二体育館にて、ビトー・シャオリン・ヒベイロと世界ウェルター級タイトルマッチで再戦。終始川尻が主導権を握り、2R3分10秒パウンドでTKO勝ちを収め、第8代修斗世界ウェルター級王者となった。
修斗王者になった後、より高みを目指すためPRIDE参戦。2005年5月22日、PRIDE 武士道 -其の七-でキム・インソクにパウンドでTKO勝ち。
2005年9月25日、PRIDE 武士道 -其の九-で行われたライト級GPの1回戦で五味隆典と対戦し、チョークスリーパーで一本負け。この試合は年間ベストバウトに選ばれるなど、周囲からも高く評価された。また試合後「負けてもリベンジする。それが僕の格闘技人生」、「自分より強い人がいることに驚いた」とコメントした[1]。
2006年2月17日、東京・代々木第二体育館にて、修斗世界ウェルター級ランキング1位のヨアキム・ハンセンを相手に初防衛戦を行う。試合開始直後、ハンセンのローブローを受けてしまい、このダメージにより川尻は試合続行不可能となり、反則勝ちによる初防衛となった。
2006年12月31日、『PRIDE 男祭り 2006』にて、ギルバート・メレンデスと対戦。激しい打撃の応酬戦を展開したが判定負け。
大晦日の試合で左手親指を負傷していたが、2007年1月18日の練習で再び同箇所を負傷、左母指中手骨基部骨折で全治2か月と診断された。骨折により期限内の防衛戦が不可能になったことにより修斗世界ウェルター級王座を2007年1月24日付けで返上した[2]。
2007年12月31日、1年ぶりの復帰戦となったやれんのか! 大晦日! 2007でルイス・アゼレードと対戦し、3-0の判定勝ち。
2008年3月15日、DREAM.1のライト級グランプリ1回戦でブラックマンバと対戦し、3-0の判定勝ち。
2008年5月11日、DREAM.3のライト級グランプリ2回戦でルイス・ブスカペと対戦し、判定勝ち。閉会式のリング上で、同ジム所属の石田光洋に一本勝ちした宇野薫に対戦要求を行った[3](4月4日の記者会見で主催者推薦枠でのグランプリ参戦が発表された宇野に対し、「言いたいことは原稿用紙10枚分くらいある」と不満を漏らしていた[4])。
2008年7月21日、DREAM.5のライト級グランプリ準決勝でエディ・アルバレスと対戦。互角に渡り合いアルバレスをKO寸前に追い込む場面もあったがパウンドでTKO負けを喫した。
2008年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜で武田幸三と初挑戦となるK-1ルールで対戦。右フック、右跳び膝蹴り、左フックで1R3度のダウンを奪いTKO勝ちを収めた。
2009年3月8日、DREAM.7でロス・エバネスと対戦し、チョークスリーパーで一本勝ちを収めた。試合後のリング上でJ.Z.カルバンとの次期挑戦者決定戦での対戦希望を表明した[5]。
2009年5月26日、DREAM.9でJ.Z.カルバンと対戦し、判定勝ち。試合後、リング上でのマイクアピールで「二人で格闘技界を盛り上げませんか?魔裟斗選手、僕にもガッツンガッツン面白い打ち合いが出来るんでよろしくお願いします」と魔裟斗に対戦を呼びかけた[6]。
2009年7月13日、K-1 WORLD MAX 2009 FINAL8で魔裟斗と対戦し、2Rタオル投入によるTKO負け。
2009年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜のDREAM vs SRC 対抗戦で横田一則と対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。
2010年7月10日、DREAM.15のDREAMライト級タイトルマッチで青木真也と対戦し、アキレス腱固めで一本負けを喫し王座獲得ならず。青木の関節技によるダメージで自ら歩いて退場できないほどであった。
2010年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜でジョシュ・トムソンと対戦し、3-0の判定勝ちを収めた[7]。
戦績 [編集]
総合格闘技 [編集]
総合格闘技 戦績
35 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
27 勝 11 6 9 1 2 0
6 敗 1 3 2 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
○ ジョシュ・トムソン 5分3R終了 判定3-0 Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜 2010年12月31日
× 青木真也 1R 1:53 アキレス腱固め DREAM.15
【DREAMライト級タイトルマッチ】 2010年7月10日
○ 横田一則 5分3R終了 判定3-0 Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜 2009年12月31日
○ メルカ・バラクーダ 1R 3:48 TKO(パウンド) DREAM.11 フェザー級グランプリ2009 決勝戦 2009年10月6日
○ J.Z.カルバン 2R(10分/5分)終了 判定3-0 DREAM.9 フェザー級グランプリ2009 2nd ROUND 2009年5月26日
○ ロス・エバネス 1R 4:03 チョークスリーパー DREAM.7 フェザー級グランプリ2009 開幕戦 2009年3月8日
× エディ・アルバレス 1R 7:35 TKO(レフェリーストップ:パウンド) DREAM.5 ライト級グランプリ2008 決勝戦
【ライト級GP 準決勝】 2008年7月21日
○ ルイス・ブスカペ 2R(10分/5分)終了 判定3-0 DREAM.3 ライト級グランプリ2008 2nd ROUND
【ライト級GP 2回戦】 2008年5月11日
○ ブラックマンバ 2R(10分/5分)終了 判定3-0 DREAM.1 ライト級グランプリ2008 開幕戦
【ライト級GP 1回戦】 2008年3月15日
○ ルイス・アゼレード 2R(10分/5分)終了 判定3-0 やれんのか! 大晦日! 2007 2007年12月31日
× ギルバート・メレンデス 2R(10分/5分)終了 判定0-3 PRIDE 男祭り 2006 -FUMETSU- 2006年12月31日
○ ペール・エクルンド 1R 4:12 TKO(レフェリーストップ:バックマウントパンチ) 修斗「Champion Carnival」 2006年10月14日
○ クリス・ブレナン 1R 0:29 KO(左膝蹴り) PRIDE 武士道 -其の十二- 2006年8月26日
○ チャールズ・"クレイジー・ホース"・ベネット 1R 2:30 膝十字固め PRIDE 武士道 -其の十一- 2006年6月4日
○ ヨアキム・ハンセン 1R 0:08 反則失格(ローブロー) 修斗「SHOOTO The Victory of The Truth」
【世界ウェルター級チャンピオンシップ】 2006年2月17日
× 五味隆典 1R 7:42 チョークスリーパー PRIDE 武士道 -其の九-
【ライト級GP 1回戦】 2005年9月25日
○ ルイス・ブスカペ 2R(10分/5分)終了 判定3-0 PRIDE 武士道 -其の八- 2005年7月17日
○ キム・インソク 1R 3:28 TKO(タオル投入) PRIDE 武士道 -其の七- 2005年5月22日
○ ヤニ・ラックス 1R 4:42 TKO(レフェリーストップ:パウンド) 修斗 in 福岡 玄海沖地震被災地チャリティイベント 2005年4月23日
○ ビトー・シャオリン・ヒベイロ 2R 3:11 TKO(レフェリーストップ:パウンド) 修斗「15th Anniversary」
【世界ウェルター級チャンピオンシップ】 2004年12月14日
○ ミンダウガス・ラウリナイティス 2R 2:00 TKO(レフェリーストップ:バックマウントパンチ) 修斗 2004年9月26日
△ 宇野薫 5分3R終了 判定1-0 修斗 2004年3月22日
○ 雷暗暴 1R 4:21 TKO(レフェリーストップ:パウンド) 修斗 2003年12月14日
○ イーブス・エドワーズ 5分3R終了 判定3-0 修斗「世界三大チャンピオンシップ」 2003年8月10日
○ タクミ 1R 4:11 TKO(レフェリーストップ:右ストレート) 修斗「Shootor's Dream II」 2003年5月30日
× ビトー・シャオリン・ヒベイロ 5分3R終了 判定0-3 修斗 2002年12月14日
○ 尾松賢 1R 4:40 腕ひしぎ十字固め 修斗
【2002年度新人王トーナメント ウェルター級 決勝】 2002年10月27日
○ 椎木努 1R 4:42 チョークスリーパー 修斗
【2002年度新人王トーナメント ウェルター級 準決勝】 2002年7月19日
○ 杉江"アマゾン"大輔 2R 4:19 TKO(レフェリーストップ:マウントパンチ) 修斗「SHOOTO GIG EAST 09」 2002年5月28日
○ 山崎剛 5分2R終了 判定3-0 修斗「WANNA SHOOTO JAPAN 2002」 2002年4月21日
○ 滝田J太郎 2R 1:22 TKO(ドクターストップ:左目負傷) 修斗「TREASURE HUNT 02」
【2002年度新人王トーナメント ウェルター級 1回戦】 2002年3月13日
○ 高田和道 1R 3:03 腕ひしぎ三角固め 修斗「SHOOTO TO THE TOP」 2001年9月27日
○ 鈴木洋平 1R 2:42 チョークスリーパー 修斗「SHOOTO GIG EAST Vol.2」 2001年5月22日
△ 鈴木洋平 5分2R終了 判定0-1 修斗「WANNA SHOOTO 2001」 2001年4月8日
× タクミ 1R 2:44 チョークスリーパー 修斗「R.E.A.D. 〜2000 SHOOTO〜 "UM CAMINHO PARA O CAMPEAO"」 2000年4月12日
キックボクシング [編集]
キックボクシング 戦績
2試合 (T)KO 判定 その他 引き分け 無効試合
1勝 1 0 0 0 0
1敗 1 0 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× 魔裟斗 2R 1:43 TKO(タオル投入) K-1 WORLD MAX 2009 World Championship Tournament FINAL8 2009年7月13日
○ 武田幸三 1R 2:47 KO(3ノックダウン:左フック) Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜 2008年12月31日
獲得タイトル [編集]
第8代修斗世界ウェルター級王座(2004年)
修斗ウェルター級新人王(2002年)
アマチュア修斗東日本オープントーナメント ウェルター級 優勝(1999年)
Posted by tokyokarasu2010 at
20:47
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2011年01月07日
川口雄介
川口 雄介(かわぐち ゆうすけ、男性、1980年8月14日 - )は、日本の総合格闘家。秋田県秋田市出身。池袋 BLUE DOG GYM所属。元DEEPメガトン級王者。
目次 [非表示]
1 来歴
2 戦績
2.1 プロ総合格闘技
2.2 プロキックボクシング
3 脚注
4 関連項目
5 外部リンク
来歴 [編集]
秋田経済法科大学附属高校では柔道でインターハイ・国体に出場し、国体では5位入賞となった。順天堂大学では1999年の全日本ジュニア柔道体重別選手権大会・男子100kg級3位となった[1]。横田一則は順天堂大学柔道部の2年先輩にあたる。
テレビ朝日のバラエティ番組「銭形金太郎」に極貧格闘家として出演し、貧乏自慢で優勝した[2]。
2007年4月、DEEP 29 IMPACTでプロ総合格闘技デビュー。以来DEEPを主戦場として活躍。
2008年に行われた第1回メガトンGPに出場。トーナメントを勝ち上がり初代メガトン級王座を獲得した[3]。
2009年4月29日、M-1チャレンジのロブ・ブロートン戦でプロ初の敗北。
2009年10月10日、DEEPメガトン級タイトルマッチで誠吾と対戦し、タオル投入によるTKO勝ちで初防衛に成功した[4]。
2009年12月19日、DEEP初のケージ大会となったDEEP CAGE IMPACT 2009でロキュー・マルチネスと対戦し、3-0の判定勝ちを収めた[5]。
2010年5月7日、KSW 13でマリウス・プジアノフスキと対戦し、0-3の判定負けを喫した[6]。
2010年8月1日、Club DEEP 八王子 IIで竹村光一と初挑戦となったキックボクシングルールで対戦し、TKO勝ちを収めた[7]。
2010年9月11日、新日本キックボクシング協会「TITANS NEOS VIII」でオスダミロフ・ティムールと対戦し、0-3の判定負けを喫した。
2010年9月25日、DREAM初参戦となったDREAM.16でジェームス・トンプソンと対戦し、2-1の判定勝ちを収めた[8]。開催前日に参戦が発表されるほどの緊急参戦となった[9]。
2011年1月8日、DEEPマカオ大会「DEEP MEYHEM IN MACAO」のDEEPメガトン級タイトルマッチで田澤和久と対戦予定であったが[10]、ケガにより王座を返上した[11]。
戦績 [編集]
プロ総合格闘技 [編集]
総合格闘技 戦績
15 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
12 勝 6 0 6 0 0 0
3 敗 1 0 2 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× ピーター・グラハム 1R TKO(肘打ち) Xtreme MMA 3 2010年11月5日
○ ジェームス・トンプソン 2R(10分/5分)終了 判定2-1 DREAM.16 2010年9月25日
× マリウス・プジアノフスキ 5分2R終了 判定0-3 KSW 13: Kumite 2010年5月7日
○ ロキュー・マルチネス 5分3R終了 判定3-0 DEEP CAGE IMPACT 2009 第1部 2009年12月19日
○ 誠吾 3R 1:27 TKO(タオル投入:右ローキック) DEEP 44 IMPACT
【DEEPメガトン級タイトルマッチ】 2009年10月10日
○ シリオ・ティエラ 5分2R終了 判定3-0 M-1 Challenge Netherlands 2日目 2009年8月16日
× ロブ・ブロートン 5分2R終了 判定0-3 M-1チャレンジ14 JAPAN 2009年4月29日
○ 星龍 5分2R終了 判定2-0 DEEP 38 IMPACT 2008年8月2日
○ 井上俊介 5分3R終了 判定2-1 club DEEP TOKYO 〜メガトンGP2008 FINAL〜
【DEEPメガトンGP 決勝】 2008年8月2日
○ 小阪俊二 1R 0:45 TKO(タオル投入:パウンド) club DEEP TOKYO 〜メガトンGP2008 FINAL〜
【DEEPメガトンGP 準決勝】 2008年8月2日
○ 馬場口洋一 1R 0:16 TKO(パウンド) club DEEP TOKYO 〜メガトンGP2008 SEMIFINAL〜
【DEEPメガトンGP 2回戦】 2008年5月24日
○ 高原信好 1R 0:40 TKO(パウンド) club DEEP TOKYO 〜メガトンGP2008 OPENING ROUND〜
【DEEPメガトンGP 1回戦】 2008年3月29日
○ 水口清吾 1R 2:07 TKO(レフェリーストップ) DEEP 32 IMPACT 2007年10月9日
○ IRO関 1R 1:06 TKO(スタンドパンチ連打) DEEP 31 IMPACT 2007年8月5日
○ フジヤマ 5分2R終了 判定2-0 DEEP 29 IMPACT 2007年4月13日
プロキックボクシング [編集]
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× オスダミロフ・ティムール 3R終了 判定0-3 新日本キックボクシング協会「TITANS NEOS VIII」 2010年9月11日
○ 竹村光一 1R 1:05 TKO Club DEEP 八王子 II 2010年8月1日
脚注 [編集]
^ 全日本ジュニア柔道体重別選手権大会(男子) eJudo
^ 「銭形金太郎」優勝者が参戦 BoutReview 2007年4月12日
^ 【clubDEEP】まさにメガトン級のド迫力!川口雄介が肉弾戦制して初代チャンピオンに 格闘技ウェブマガジンGBR 2008年8月2日
^ 【DEEP】メガトンファイトのド迫力に場内興奮!MIKUはWINDYを圧倒して12連勝 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年10月10日
^ 【DEEP】今成正和が珍しい複合関節技で一本勝ち!川口はグアムからの刺客を降す 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年12月19日
^ 【KSW】川口雄介&桜井隆多参戦のポーランド『KSW13』試合結果 格闘王国 2010年5月8日
^ 【ClubDEEP】地元・八王子のGozoはメインで辛勝!メガトン王者・川口はTKO勝ち 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年8月1日
^ 【DREAM】石井慧が国内初勝利、桜庭和志は生涯初の一本負け!(3) 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年9月25日
^ 【DREAM】9・25川口雄介VSジェームス・トンプソンが追加!石井VSミノワマンは第7試合に 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年9月24日
^ 【DEEP】1・8初の海外進出、マカオ大会が決定!桜井隆多や石岡沙織ら出場 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年11月30日
^ 【DEEP】1・8川口雄介が王座返上、マカオで桜木裕司VS田澤和久の王座決定戦 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年12月20日
目次 [非表示]
1 来歴
2 戦績
2.1 プロ総合格闘技
2.2 プロキックボクシング
3 脚注
4 関連項目
5 外部リンク
来歴 [編集]
秋田経済法科大学附属高校では柔道でインターハイ・国体に出場し、国体では5位入賞となった。順天堂大学では1999年の全日本ジュニア柔道体重別選手権大会・男子100kg級3位となった[1]。横田一則は順天堂大学柔道部の2年先輩にあたる。
テレビ朝日のバラエティ番組「銭形金太郎」に極貧格闘家として出演し、貧乏自慢で優勝した[2]。
2007年4月、DEEP 29 IMPACTでプロ総合格闘技デビュー。以来DEEPを主戦場として活躍。
2008年に行われた第1回メガトンGPに出場。トーナメントを勝ち上がり初代メガトン級王座を獲得した[3]。
2009年4月29日、M-1チャレンジのロブ・ブロートン戦でプロ初の敗北。
2009年10月10日、DEEPメガトン級タイトルマッチで誠吾と対戦し、タオル投入によるTKO勝ちで初防衛に成功した[4]。
2009年12月19日、DEEP初のケージ大会となったDEEP CAGE IMPACT 2009でロキュー・マルチネスと対戦し、3-0の判定勝ちを収めた[5]。
2010年5月7日、KSW 13でマリウス・プジアノフスキと対戦し、0-3の判定負けを喫した[6]。
2010年8月1日、Club DEEP 八王子 IIで竹村光一と初挑戦となったキックボクシングルールで対戦し、TKO勝ちを収めた[7]。
2010年9月11日、新日本キックボクシング協会「TITANS NEOS VIII」でオスダミロフ・ティムールと対戦し、0-3の判定負けを喫した。
2010年9月25日、DREAM初参戦となったDREAM.16でジェームス・トンプソンと対戦し、2-1の判定勝ちを収めた[8]。開催前日に参戦が発表されるほどの緊急参戦となった[9]。
2011年1月8日、DEEPマカオ大会「DEEP MEYHEM IN MACAO」のDEEPメガトン級タイトルマッチで田澤和久と対戦予定であったが[10]、ケガにより王座を返上した[11]。
戦績 [編集]
プロ総合格闘技 [編集]
総合格闘技 戦績
15 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
12 勝 6 0 6 0 0 0
3 敗 1 0 2 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× ピーター・グラハム 1R TKO(肘打ち) Xtreme MMA 3 2010年11月5日
○ ジェームス・トンプソン 2R(10分/5分)終了 判定2-1 DREAM.16 2010年9月25日
× マリウス・プジアノフスキ 5分2R終了 判定0-3 KSW 13: Kumite 2010年5月7日
○ ロキュー・マルチネス 5分3R終了 判定3-0 DEEP CAGE IMPACT 2009 第1部 2009年12月19日
○ 誠吾 3R 1:27 TKO(タオル投入:右ローキック) DEEP 44 IMPACT
【DEEPメガトン級タイトルマッチ】 2009年10月10日
○ シリオ・ティエラ 5分2R終了 判定3-0 M-1 Challenge Netherlands 2日目 2009年8月16日
× ロブ・ブロートン 5分2R終了 判定0-3 M-1チャレンジ14 JAPAN 2009年4月29日
○ 星龍 5分2R終了 判定2-0 DEEP 38 IMPACT 2008年8月2日
○ 井上俊介 5分3R終了 判定2-1 club DEEP TOKYO 〜メガトンGP2008 FINAL〜
【DEEPメガトンGP 決勝】 2008年8月2日
○ 小阪俊二 1R 0:45 TKO(タオル投入:パウンド) club DEEP TOKYO 〜メガトンGP2008 FINAL〜
【DEEPメガトンGP 準決勝】 2008年8月2日
○ 馬場口洋一 1R 0:16 TKO(パウンド) club DEEP TOKYO 〜メガトンGP2008 SEMIFINAL〜
【DEEPメガトンGP 2回戦】 2008年5月24日
○ 高原信好 1R 0:40 TKO(パウンド) club DEEP TOKYO 〜メガトンGP2008 OPENING ROUND〜
【DEEPメガトンGP 1回戦】 2008年3月29日
○ 水口清吾 1R 2:07 TKO(レフェリーストップ) DEEP 32 IMPACT 2007年10月9日
○ IRO関 1R 1:06 TKO(スタンドパンチ連打) DEEP 31 IMPACT 2007年8月5日
○ フジヤマ 5分2R終了 判定2-0 DEEP 29 IMPACT 2007年4月13日
プロキックボクシング [編集]
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× オスダミロフ・ティムール 3R終了 判定0-3 新日本キックボクシング協会「TITANS NEOS VIII」 2010年9月11日
○ 竹村光一 1R 1:05 TKO Club DEEP 八王子 II 2010年8月1日
脚注 [編集]
^ 全日本ジュニア柔道体重別選手権大会(男子) eJudo
^ 「銭形金太郎」優勝者が参戦 BoutReview 2007年4月12日
^ 【clubDEEP】まさにメガトン級のド迫力!川口雄介が肉弾戦制して初代チャンピオンに 格闘技ウェブマガジンGBR 2008年8月2日
^ 【DEEP】メガトンファイトのド迫力に場内興奮!MIKUはWINDYを圧倒して12連勝 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年10月10日
^ 【DEEP】今成正和が珍しい複合関節技で一本勝ち!川口はグアムからの刺客を降す 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年12月19日
^ 【KSW】川口雄介&桜井隆多参戦のポーランド『KSW13』試合結果 格闘王国 2010年5月8日
^ 【ClubDEEP】地元・八王子のGozoはメインで辛勝!メガトン王者・川口はTKO勝ち 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年8月1日
^ 【DREAM】石井慧が国内初勝利、桜庭和志は生涯初の一本負け!(3) 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年9月25日
^ 【DREAM】9・25川口雄介VSジェームス・トンプソンが追加!石井VSミノワマンは第7試合に 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年9月24日
^ 【DEEP】1・8初の海外進出、マカオ大会が決定!桜井隆多や石岡沙織ら出場 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年11月30日
^ 【DEEP】1・8川口雄介が王座返上、マカオで桜木裕司VS田澤和久の王座決定戦 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年12月20日
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2011年01月06日
石渡伸太郎
石渡 伸太郎(いしわたり しんたろう、男性、1985年2月21日 - )は、日本の総合格闘家。大阪府大阪市出身。GUTSMAN・修斗道場所属。
石渡太輔とはいとこ同士。
目次 [非表示]
1 来歴
2 戦績
2.1 プロ総合格闘技
2.2 アマ総合格闘技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク
来歴 [編集]
2005年9月18日、全日本アマチュア修斗選手権のライト級に出場。決勝で上田将勝に敗れ、準優勝となり[1]、プロ昇格を決めた。
2006年3月3日、新人王トーナメントでプロ修斗デビューを果たすも、石澤大介に敗れ緒戦敗退に終わる。11月10日には小林正俊に判定勝ちを収めプロ初白星を挙げた。
2007年8月5日、中村"アイアン"浩士と対戦し判定1-0で引き分ける。
2008年2月23日、「修斗 SHOOTING DISCO 4」で2007年度新人王の伊藤一宏と対戦、グラウンドポジションで洗濯ばさみを掛けられた体勢から相手を持ち上げ、前頭部から叩き付けるというスラムで伊藤を失神させTKO勝ち[2]。9月28日には不死身夜天慶にTKO勝利を収めた。
2009年1月18日、「修斗伝承 05」で小見川道大と引き分ける。3月20日、「戦極 〜第七陣〜」で戦極フェザー級グランプリ1回戦に出場、ジョン・チャンソンにチョークスリーパーで敗れる。
2009年6月6日、修斗のメインイベントで土屋大喜と対戦し、開始20秒右フックを受けダウンしたところにパウンドで追撃されTKO負け[3]。
2010年7月4日、SRC ASIA vol.1のSRCバンタム級ASIAトーナメント2010 1回戦でパンチィー山内と対戦し、パウンドによるTKO勝ちを収めた。
2010年8月22日、SRC14のSRCバンタム級ASIAトーナメント2010 2回戦でイ・ギルウと対戦し、フロントチョークで一本勝ちを収めた[4]。
2010年10月30日、SRC15のSRCバンタム級ASIAトーナメント2010 準々決勝で中原太陽と対戦し、1-2の判定負けを喫した[5]。
戦績 [編集]
プロ総合格闘技 [編集]
総合格闘技 戦績
16 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
9 勝 5 1 3 0 3 0
4 敗 2 1 1 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× 中原太陽 5分2R終了 判定1-2 SRC15
【SRCバンタム級ASIAトーナメント2010 準々決勝】 2010年10月30日
○ イ・ギルウ 1R 2:20 フロントチョーク SRC14
【SRCバンタム級ASIAトーナメント2010 2回戦】 2010年8月22日
○ パンチィー山内 1R 3:13 TKO(パウンド) SRC ASIA vol.1
【SRCバンタム級ASIAトーナメント2010 1回戦】 2010年7月4日
○ 美木航 5分2R終了 判定2-0 修斗 The Way of SHOOTO 03 〜Like a Tiger, Like a Dragon〜 2010年5月30日
× 土屋大喜 1R 0:20 TKO(右フック→パウンド) 修斗 SHOOTING DISCO 9 〜スーパーマン〜 2009年6月6日
× ジョン・チャンソン 1R 4:29 チョークスリーパー 戦極 〜第七陣〜
【フェザー級グランプリ2009 1回戦】 2009年3月20日
△ 小見川道大 5分2R終了 判定0-0 修斗 修斗伝承 05 -ROAD TO 20th ANNIVERSARY- 2009年1月18日
○ 不死身夜天慶 1R 4:08 TKO(右フック) 修斗 修斗伝承 03 -ROAD TO 20th ANNIVERSARY- 2008年9月28日
○ 伊藤一宏 1R 2:17 TKO(スラム) 修斗 SHOOTING DISCO 4 〜ボーン イン ザ ☆ ファイティング〜 2008年2月23日
○ 碓氷早矢手 5分2R終了 判定3-0 修斗 BACK TO OUR ROOTS 06 2007年11月8日
△ 中村"アイアン"浩士 5分2R終了 判定1-0 修斗 SHOOTING DISCO 2 〜今夜はヒートアップ〜 2007年8月5日
○ YOKOSAI 1R 2:45 TKO(パウンド) 修斗 SHOOTING DISCO 1 〜サタデーナイトヒーロー〜 2007年6月2日
○ 谷口智則 1R 3:41 TKO(レフェリーストップ:鼻骨骨折) 修斗 下北沢修斗劇場 第17弾 〜男はつよいよ〜 2007年3月4日
○ 小林正俊 5分2R終了 判定2-0 修斗 2006年11月10日
△ 山田啓介 5分2R終了 判定0-0 修斗 下北沢修斗劇場 第16弾 〜燃えろいい男〜 2006年10月1日
× 石澤大介 2R 2:01 TKO(レフェリーストップ:顔面の出血) 修斗 下北沢修斗劇場 第14弾 〜'06 巣立ち〜
【ライト級 新人王決定トーナメント 1回戦】 2006年3月3日
アマ総合格闘技 [編集]
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× 上田将勝 3分2R終了 ポイント39-46 第12回全日本アマチュア修斗選手権【ライト級 決勝】 2005年9月18日
○ 小澤朗 4分1R終了 ポイント20-18 第12回全日本アマチュア修斗選手権【ライト級 準決勝】 2005年9月18日
○ 中平和 4分1R終了 ポイント20-16 第12回全日本アマチュア修斗選手権【ライト級 2回戦】 2005年9月18日
○ 水野直宏 4分1R終了 ポイント20-19 第12回全日本アマチュア修斗選手権【ライト級 1回戦】 2005年9月18日
○ 荻原英之 3分2R終了 ポイント42-37 第5回東日本アマチュア修斗フレッシュマントーナメント【ライト級 決勝】 2005年4月29日
○ 石田雄三 4分1R終了 ポイント21-17 第5回東日本アマチュア修斗フレッシュマントーナメント【ライト級 準決勝】 2005年4月29日
○ 加藤圭太 4分1R終了 ポイント24-17 第5回東日本アマチュア修斗フレッシュマントーナメント【ライト級 3回戦】 2005年4月29日
○ 藤石義和 1R 0:27 KO 第5回東日本アマチュア修斗フレッシュマントーナメント【ライト級 2回戦】 2005年4月29日
○ 船津泰彦 1R 2:12 アームロック 第5回東日本アマチュア修斗フレッシュマントーナメント【ライト級 1回戦】 2005年4月29日
獲得タイトル [編集]
第5回東日本アマチュア修斗フレッシュマントーナメント ライト級 優勝(2005年)
第5回東日本アマチュア修斗選手権 ライト級 3位(2005年)
第12回全日本アマチュア修斗選手権 ライト級 準優勝(2005年)[1]
石渡太輔とはいとこ同士。
目次 [非表示]
1 来歴
2 戦績
2.1 プロ総合格闘技
2.2 アマ総合格闘技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク
来歴 [編集]
2005年9月18日、全日本アマチュア修斗選手権のライト級に出場。決勝で上田将勝に敗れ、準優勝となり[1]、プロ昇格を決めた。
2006年3月3日、新人王トーナメントでプロ修斗デビューを果たすも、石澤大介に敗れ緒戦敗退に終わる。11月10日には小林正俊に判定勝ちを収めプロ初白星を挙げた。
2007年8月5日、中村"アイアン"浩士と対戦し判定1-0で引き分ける。
2008年2月23日、「修斗 SHOOTING DISCO 4」で2007年度新人王の伊藤一宏と対戦、グラウンドポジションで洗濯ばさみを掛けられた体勢から相手を持ち上げ、前頭部から叩き付けるというスラムで伊藤を失神させTKO勝ち[2]。9月28日には不死身夜天慶にTKO勝利を収めた。
2009年1月18日、「修斗伝承 05」で小見川道大と引き分ける。3月20日、「戦極 〜第七陣〜」で戦極フェザー級グランプリ1回戦に出場、ジョン・チャンソンにチョークスリーパーで敗れる。
2009年6月6日、修斗のメインイベントで土屋大喜と対戦し、開始20秒右フックを受けダウンしたところにパウンドで追撃されTKO負け[3]。
2010年7月4日、SRC ASIA vol.1のSRCバンタム級ASIAトーナメント2010 1回戦でパンチィー山内と対戦し、パウンドによるTKO勝ちを収めた。
2010年8月22日、SRC14のSRCバンタム級ASIAトーナメント2010 2回戦でイ・ギルウと対戦し、フロントチョークで一本勝ちを収めた[4]。
2010年10月30日、SRC15のSRCバンタム級ASIAトーナメント2010 準々決勝で中原太陽と対戦し、1-2の判定負けを喫した[5]。
戦績 [編集]
プロ総合格闘技 [編集]
総合格闘技 戦績
16 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
9 勝 5 1 3 0 3 0
4 敗 2 1 1 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× 中原太陽 5分2R終了 判定1-2 SRC15
【SRCバンタム級ASIAトーナメント2010 準々決勝】 2010年10月30日
○ イ・ギルウ 1R 2:20 フロントチョーク SRC14
【SRCバンタム級ASIAトーナメント2010 2回戦】 2010年8月22日
○ パンチィー山内 1R 3:13 TKO(パウンド) SRC ASIA vol.1
【SRCバンタム級ASIAトーナメント2010 1回戦】 2010年7月4日
○ 美木航 5分2R終了 判定2-0 修斗 The Way of SHOOTO 03 〜Like a Tiger, Like a Dragon〜 2010年5月30日
× 土屋大喜 1R 0:20 TKO(右フック→パウンド) 修斗 SHOOTING DISCO 9 〜スーパーマン〜 2009年6月6日
× ジョン・チャンソン 1R 4:29 チョークスリーパー 戦極 〜第七陣〜
【フェザー級グランプリ2009 1回戦】 2009年3月20日
△ 小見川道大 5分2R終了 判定0-0 修斗 修斗伝承 05 -ROAD TO 20th ANNIVERSARY- 2009年1月18日
○ 不死身夜天慶 1R 4:08 TKO(右フック) 修斗 修斗伝承 03 -ROAD TO 20th ANNIVERSARY- 2008年9月28日
○ 伊藤一宏 1R 2:17 TKO(スラム) 修斗 SHOOTING DISCO 4 〜ボーン イン ザ ☆ ファイティング〜 2008年2月23日
○ 碓氷早矢手 5分2R終了 判定3-0 修斗 BACK TO OUR ROOTS 06 2007年11月8日
△ 中村"アイアン"浩士 5分2R終了 判定1-0 修斗 SHOOTING DISCO 2 〜今夜はヒートアップ〜 2007年8月5日
○ YOKOSAI 1R 2:45 TKO(パウンド) 修斗 SHOOTING DISCO 1 〜サタデーナイトヒーロー〜 2007年6月2日
○ 谷口智則 1R 3:41 TKO(レフェリーストップ:鼻骨骨折) 修斗 下北沢修斗劇場 第17弾 〜男はつよいよ〜 2007年3月4日
○ 小林正俊 5分2R終了 判定2-0 修斗 2006年11月10日
△ 山田啓介 5分2R終了 判定0-0 修斗 下北沢修斗劇場 第16弾 〜燃えろいい男〜 2006年10月1日
× 石澤大介 2R 2:01 TKO(レフェリーストップ:顔面の出血) 修斗 下北沢修斗劇場 第14弾 〜'06 巣立ち〜
【ライト級 新人王決定トーナメント 1回戦】 2006年3月3日
アマ総合格闘技 [編集]
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× 上田将勝 3分2R終了 ポイント39-46 第12回全日本アマチュア修斗選手権【ライト級 決勝】 2005年9月18日
○ 小澤朗 4分1R終了 ポイント20-18 第12回全日本アマチュア修斗選手権【ライト級 準決勝】 2005年9月18日
○ 中平和 4分1R終了 ポイント20-16 第12回全日本アマチュア修斗選手権【ライト級 2回戦】 2005年9月18日
○ 水野直宏 4分1R終了 ポイント20-19 第12回全日本アマチュア修斗選手権【ライト級 1回戦】 2005年9月18日
○ 荻原英之 3分2R終了 ポイント42-37 第5回東日本アマチュア修斗フレッシュマントーナメント【ライト級 決勝】 2005年4月29日
○ 石田雄三 4分1R終了 ポイント21-17 第5回東日本アマチュア修斗フレッシュマントーナメント【ライト級 準決勝】 2005年4月29日
○ 加藤圭太 4分1R終了 ポイント24-17 第5回東日本アマチュア修斗フレッシュマントーナメント【ライト級 3回戦】 2005年4月29日
○ 藤石義和 1R 0:27 KO 第5回東日本アマチュア修斗フレッシュマントーナメント【ライト級 2回戦】 2005年4月29日
○ 船津泰彦 1R 2:12 アームロック 第5回東日本アマチュア修斗フレッシュマントーナメント【ライト級 1回戦】 2005年4月29日
獲得タイトル [編集]
第5回東日本アマチュア修斗フレッシュマントーナメント ライト級 優勝(2005年)
第5回東日本アマチュア修斗選手権 ライト級 3位(2005年)
第12回全日本アマチュア修斗選手権 ライト級 準優勝(2005年)[1]
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2011年01月06日
石田光洋
石田 光洋(いしだ みつひろ、男性、1978年12月29日 - )は、日本の総合格闘家。茨城県つくば市出身。T-BLOOD所属。修斗第2代環太平洋ウェルター級王者。「永久電池」「ダイナモ・タックラー」の異名を持つ。
タックルが得意技。本人自ら「絶対切れない(かわせない)」と公言するほどのキレがある。
目次 [非表示]
1 人物
2 来歴
3 戦績
3.1 総合格闘技
3.2 グラップリング
3.3 シュートボクシング
4 獲得タイトル
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
人物 [編集]
試合を終えた後のマイクパフォーマンス、インタビューでは非常に紳士的かつ謙虚な対応を見せる。
桜井"マッハ"速人、川尻達也、桜井隆多らとは親交が厚く、特に川尻のセコンドにつく際は、大きな声で的確な指示を与えている。
かつて高田道場に在籍していたが、道場から逃げ出し退団した[1]。
来歴 [編集]
2001年7月6日、修斗デビュー戦で杉江"アマゾン"大輔と対戦、判定負け。黒星デビューとなった。
2006年2月17日、修斗環太平洋ウェルター級王座決定戦で冨樫健一郎と対戦、判定勝ち。修斗第2代環太平洋ウェルター級王者となった。
修斗で12戦9勝の実績を持ってPRIDE初参戦となった2006年4月2日の『PRIDE 武士道 -其の拾-』では、ポール・ロドリゲスと対戦、フロントチョークで一本勝ちし、白星デビューを飾る。
2006年6月4日、『PRIDE 武士道 -其の十一-』では、PRIDEライト級王者・五味隆典を破ったマーカス・アウレリオと対戦。パウンドの連打で圧倒し、判定勝利。
しかし五味とのタイトルマッチまで浮上しかかった中で行われた2006年8月26日の『PRIDE 武士道 -其の十二-』では、シュートボクセ・アカデミーの柔術コーチ、クリスチャーノ・マルセロに苦戦を強いられ、僅差の判定勝利を掴んだものの、タイトルマッチ候補からは大きく遠ざかる結果となった。
2006年12月31日、『PRIDE 男祭り 2006』でついに五味隆典との対戦が実現。石田の放った左ミドルキックに対するカウンターの左ストレートを受けダウン、更にパウンドの追撃を受け、レフェリーストップ負け。
2007年1月、大晦日のKO負けで期限内に防衛戦を行うことが不可能になったため、修斗環太平洋ウェルター級王座を返上した[2]。
2007年12月31日、『やれんのか! 大晦日! 2007』でギルバート・メレンデスと対戦。高速タックルでのテイクダウンを連発し、3-0の判定勝ち。
2008年3月15日、DREAM.1のライト級グランプリ1回戦でチョン・ブギョンと対戦し、3-0の判定勝ち。
2008年5月11日、DREAM.3のライト級グランプリ2回戦で宇野薫と対戦し、チョークスリーパーで一本負け。
2008年9月20日、初参戦となったStrikeforceでジャスティン・ウィルコックスと対戦し、腕ひしぎ十字固めでタップアウト勝ち[3]。
2009年3月8日、DREAM.7で中村大介と対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。
2009年5月10日、修斗で廣田瑞人と対戦し、パウンドでTKO負けを喫した。この試合は「DREAM vs. 戦極」として注目された。
2009年8月15日、Strikeforce: Carano vs. Cyborgの暫定世界ライト級タイトルマッチで暫定王者ギルバート・メレンデスと対戦し、TKO負け[4]。1年8か月ぶりの再戦であったが、リベンジを許した。
2010年7月10日、1年4か月ぶりのDREAM参戦となったDREAM.15でDJ.taikiと対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。
2010年9月25日、DREAM.16で西浦"ウィッキー"聡生と対戦し、2-1の判定勝ちを収めた[5]。
2010年11月23日、シュートボクシング初参戦となったSHOOT BOXING WORLD TOURNAMENT S-cup 2010のSB vs. DREAM対抗戦で鈴木博昭と対戦し、2R左ストレートでKO負けを喫した[6]。
戦績 [編集]
総合格闘技 [編集]
総合格闘技 戦績
27 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
20 勝 3 2 15 0 1 0
6 敗 3 1 2 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
○ 西浦"ウィッキー"聡生 2R(10分/5分)終了 判定2-1 DREAM.16 2010年9月25日
○ DJ.taiki 2R(10分/5分)終了 判定3-0 DREAM.15 2010年7月10日
× ギルバート・メレンデス 3R 3:56 TKO(レフェリーストップ:パウンド) Strikeforce: Carano vs. Cyborg
【Strikeforce暫定世界ライト級タイトルマッチ】 2009年8月15日
× 廣田瑞人 1R 1:33 TKO(レフェリーストップ:パウンド) 修斗 "修斗伝承 ROAD TO 20th ANNIVERSARY FINAL" 2009年5月10日
○ 中村大介 2R(10分/5分)終了 判定3-0 DREAM.7 フェザー級グランプリ2009 開幕戦 2009年3月8日
○ ジャスティン・ウィルコックス 1R 1:21 腕ひしぎ十字固め Strikeforce: Playboy Mansion II 2008年9月20日
× 宇野薫 2R 1:39 チョークスリーパー DREAM.3 ライト級グランプリ2008 2nd ROUND
【ライト級GP 2回戦】 2008年5月11日
○ チョン・ブギョン 2R(10分/5分)終了 判定3-0 DREAM.1 ライト級グランプリ2008 開幕戦
【ライト級GP 1回戦】 2008年3月15日
○ ギルバート・メレンデス 2R(10分/5分)終了 判定3-0 やれんのか! 大晦日! 2007 2007年12月31日
× 五味隆典 1R 1:14 KO(パウンド) PRIDE 男祭り 2006 -FUMETSU- 2006年12月31日
○ デビッド・ベルクヘーデン 2R(10分/5分)終了 判定3-0 PRIDE 武士道 -其の十三- 2006年11月5日
○ クリスチャーノ・マルセロ 2R(10分/5分)終了 判定3-0 PRIDE 武士道 -其の十二- 2006年8月26日
○ マーカス・アウレリオ 2R(10分/5分)終了 判定3-0 PRIDE 武士道 -其の十一- 2006年6月4日
○ ポール・ロドリゲス 1R 2:29 フロントチョーク PRIDE 武士道 -其の拾- 2006年4月2日
○ 冨樫健一郎 5分3R終了 判定2-0 修斗 SHOOTO The Victory of The Truth
【環太平洋ウェルター級王座決定戦】 2006年2月17日
○ 中蔵隆志 3R 1:31 TKO(ドクターストップ:右瞼カット) 修斗 ALIVE ROAD 2005年8月20日
○ 佐藤伸哉 1R 3:03 TKO(タオル投入) D.O.G 2005年3月12日
○ 杉江"アマゾン"大輔 5分3R終了 判定3-0 修斗 WANNA SHOOTO 2004 2004年11月12日
× ビトー・シャオリン・ヒベイロ 5分3R終了 判定0-3 Shooto Hawaii: Soljah Fight Night 2004年7月9日
○ 福本よう一 5分3R終了 判定3-0 修斗 2004年3月4日
○ 大河内貴之 5分2R終了 判定3-0 修斗 2004年1月24日
△ 松下直揮 5分2R終了 判定1-0 修斗 2003年7月13日
○ 朴光哲 5分2R終了 判定3-0 修斗 2003年2月6日
○ 倉持昌和 5分2R終了 判定3-0 修斗 2002年1月12日
○ 小島直人 2R 1:58 TKO(レフェリーストップ:パウンド) 修斗 SHOOTO GIG EAST 2001-07 2001年11月26日
○ 小谷ヒロキ 5分2R終了 判定3-0 修斗 SHOOTO TO THE TOP 2001年9月27日
× 杉江"アマゾン"大輔 5分2R終了 判定0-3 修斗 SHOOTO TO THE TOP 2001年7月6日
グラップリング [編集]
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
△ 星野勇二 5分2R終了 判定40-40 GCM THE CONTENDERS-8 INFINITY 2003年5月25日
シュートボクシング [編集]
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× 鈴木博昭 2R 2:21 KO(左ストレート) SHOOT BOXING WORLD TOURNAMENT S-cup 2010 2010年11月23日
獲得タイトル [編集]
アマチュアリングス 70kg級 優勝(1999年)
全日本アマチュア修斗選手権 ミドル級 3位(1999年)
全日本アマチュア修斗選手権 ウェルター級 3位(2000年)
第2代修斗環太平洋ウェルター級王座
脚注 [編集]
^ 石田選手に突撃一問一答
^ 石田光洋、環太平洋ウェルター級王座返上 SHOOTO NEWS 2007年1月12日
^ 三崎&石田がストライクフォース参戦、揃って快勝! MMAPLANET 2008年9月21日
^ 【Strikeforce】メレンデス磐石の防衛、石田にリベンジ達成 MMAPLANET 2009年8月16日
^ 【DREAM】石井慧が国内初勝利、桜庭和志は生涯初の一本負け!(3) 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年9月25日
^ 【シュートボクシング】立ち技最強はムエタイ!ブアカーオ優勝、サワーは準決勝で敗れる 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年11月23日
タックルが得意技。本人自ら「絶対切れない(かわせない)」と公言するほどのキレがある。
目次 [非表示]
1 人物
2 来歴
3 戦績
3.1 総合格闘技
3.2 グラップリング
3.3 シュートボクシング
4 獲得タイトル
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
人物 [編集]
試合を終えた後のマイクパフォーマンス、インタビューでは非常に紳士的かつ謙虚な対応を見せる。
桜井"マッハ"速人、川尻達也、桜井隆多らとは親交が厚く、特に川尻のセコンドにつく際は、大きな声で的確な指示を与えている。
かつて高田道場に在籍していたが、道場から逃げ出し退団した[1]。
来歴 [編集]
2001年7月6日、修斗デビュー戦で杉江"アマゾン"大輔と対戦、判定負け。黒星デビューとなった。
2006年2月17日、修斗環太平洋ウェルター級王座決定戦で冨樫健一郎と対戦、判定勝ち。修斗第2代環太平洋ウェルター級王者となった。
修斗で12戦9勝の実績を持ってPRIDE初参戦となった2006年4月2日の『PRIDE 武士道 -其の拾-』では、ポール・ロドリゲスと対戦、フロントチョークで一本勝ちし、白星デビューを飾る。
2006年6月4日、『PRIDE 武士道 -其の十一-』では、PRIDEライト級王者・五味隆典を破ったマーカス・アウレリオと対戦。パウンドの連打で圧倒し、判定勝利。
しかし五味とのタイトルマッチまで浮上しかかった中で行われた2006年8月26日の『PRIDE 武士道 -其の十二-』では、シュートボクセ・アカデミーの柔術コーチ、クリスチャーノ・マルセロに苦戦を強いられ、僅差の判定勝利を掴んだものの、タイトルマッチ候補からは大きく遠ざかる結果となった。
2006年12月31日、『PRIDE 男祭り 2006』でついに五味隆典との対戦が実現。石田の放った左ミドルキックに対するカウンターの左ストレートを受けダウン、更にパウンドの追撃を受け、レフェリーストップ負け。
2007年1月、大晦日のKO負けで期限内に防衛戦を行うことが不可能になったため、修斗環太平洋ウェルター級王座を返上した[2]。
2007年12月31日、『やれんのか! 大晦日! 2007』でギルバート・メレンデスと対戦。高速タックルでのテイクダウンを連発し、3-0の判定勝ち。
2008年3月15日、DREAM.1のライト級グランプリ1回戦でチョン・ブギョンと対戦し、3-0の判定勝ち。
2008年5月11日、DREAM.3のライト級グランプリ2回戦で宇野薫と対戦し、チョークスリーパーで一本負け。
2008年9月20日、初参戦となったStrikeforceでジャスティン・ウィルコックスと対戦し、腕ひしぎ十字固めでタップアウト勝ち[3]。
2009年3月8日、DREAM.7で中村大介と対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。
2009年5月10日、修斗で廣田瑞人と対戦し、パウンドでTKO負けを喫した。この試合は「DREAM vs. 戦極」として注目された。
2009年8月15日、Strikeforce: Carano vs. Cyborgの暫定世界ライト級タイトルマッチで暫定王者ギルバート・メレンデスと対戦し、TKO負け[4]。1年8か月ぶりの再戦であったが、リベンジを許した。
2010年7月10日、1年4か月ぶりのDREAM参戦となったDREAM.15でDJ.taikiと対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。
2010年9月25日、DREAM.16で西浦"ウィッキー"聡生と対戦し、2-1の判定勝ちを収めた[5]。
2010年11月23日、シュートボクシング初参戦となったSHOOT BOXING WORLD TOURNAMENT S-cup 2010のSB vs. DREAM対抗戦で鈴木博昭と対戦し、2R左ストレートでKO負けを喫した[6]。
戦績 [編集]
総合格闘技 [編集]
総合格闘技 戦績
27 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
20 勝 3 2 15 0 1 0
6 敗 3 1 2 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
○ 西浦"ウィッキー"聡生 2R(10分/5分)終了 判定2-1 DREAM.16 2010年9月25日
○ DJ.taiki 2R(10分/5分)終了 判定3-0 DREAM.15 2010年7月10日
× ギルバート・メレンデス 3R 3:56 TKO(レフェリーストップ:パウンド) Strikeforce: Carano vs. Cyborg
【Strikeforce暫定世界ライト級タイトルマッチ】 2009年8月15日
× 廣田瑞人 1R 1:33 TKO(レフェリーストップ:パウンド) 修斗 "修斗伝承 ROAD TO 20th ANNIVERSARY FINAL" 2009年5月10日
○ 中村大介 2R(10分/5分)終了 判定3-0 DREAM.7 フェザー級グランプリ2009 開幕戦 2009年3月8日
○ ジャスティン・ウィルコックス 1R 1:21 腕ひしぎ十字固め Strikeforce: Playboy Mansion II 2008年9月20日
× 宇野薫 2R 1:39 チョークスリーパー DREAM.3 ライト級グランプリ2008 2nd ROUND
【ライト級GP 2回戦】 2008年5月11日
○ チョン・ブギョン 2R(10分/5分)終了 判定3-0 DREAM.1 ライト級グランプリ2008 開幕戦
【ライト級GP 1回戦】 2008年3月15日
○ ギルバート・メレンデス 2R(10分/5分)終了 判定3-0 やれんのか! 大晦日! 2007 2007年12月31日
× 五味隆典 1R 1:14 KO(パウンド) PRIDE 男祭り 2006 -FUMETSU- 2006年12月31日
○ デビッド・ベルクヘーデン 2R(10分/5分)終了 判定3-0 PRIDE 武士道 -其の十三- 2006年11月5日
○ クリスチャーノ・マルセロ 2R(10分/5分)終了 判定3-0 PRIDE 武士道 -其の十二- 2006年8月26日
○ マーカス・アウレリオ 2R(10分/5分)終了 判定3-0 PRIDE 武士道 -其の十一- 2006年6月4日
○ ポール・ロドリゲス 1R 2:29 フロントチョーク PRIDE 武士道 -其の拾- 2006年4月2日
○ 冨樫健一郎 5分3R終了 判定2-0 修斗 SHOOTO The Victory of The Truth
【環太平洋ウェルター級王座決定戦】 2006年2月17日
○ 中蔵隆志 3R 1:31 TKO(ドクターストップ:右瞼カット) 修斗 ALIVE ROAD 2005年8月20日
○ 佐藤伸哉 1R 3:03 TKO(タオル投入) D.O.G 2005年3月12日
○ 杉江"アマゾン"大輔 5分3R終了 判定3-0 修斗 WANNA SHOOTO 2004 2004年11月12日
× ビトー・シャオリン・ヒベイロ 5分3R終了 判定0-3 Shooto Hawaii: Soljah Fight Night 2004年7月9日
○ 福本よう一 5分3R終了 判定3-0 修斗 2004年3月4日
○ 大河内貴之 5分2R終了 判定3-0 修斗 2004年1月24日
△ 松下直揮 5分2R終了 判定1-0 修斗 2003年7月13日
○ 朴光哲 5分2R終了 判定3-0 修斗 2003年2月6日
○ 倉持昌和 5分2R終了 判定3-0 修斗 2002年1月12日
○ 小島直人 2R 1:58 TKO(レフェリーストップ:パウンド) 修斗 SHOOTO GIG EAST 2001-07 2001年11月26日
○ 小谷ヒロキ 5分2R終了 判定3-0 修斗 SHOOTO TO THE TOP 2001年9月27日
× 杉江"アマゾン"大輔 5分2R終了 判定0-3 修斗 SHOOTO TO THE TOP 2001年7月6日
グラップリング [編集]
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
△ 星野勇二 5分2R終了 判定40-40 GCM THE CONTENDERS-8 INFINITY 2003年5月25日
シュートボクシング [編集]
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× 鈴木博昭 2R 2:21 KO(左ストレート) SHOOT BOXING WORLD TOURNAMENT S-cup 2010 2010年11月23日
獲得タイトル [編集]
アマチュアリングス 70kg級 優勝(1999年)
全日本アマチュア修斗選手権 ミドル級 3位(1999年)
全日本アマチュア修斗選手権 ウェルター級 3位(2000年)
第2代修斗環太平洋ウェルター級王座
脚注 [編集]
^ 石田選手に突撃一問一答
^ 石田光洋、環太平洋ウェルター級王座返上 SHOOTO NEWS 2007年1月12日
^ 三崎&石田がストライクフォース参戦、揃って快勝! MMAPLANET 2008年9月21日
^ 【Strikeforce】メレンデス磐石の防衛、石田にリベンジ達成 MMAPLANET 2009年8月16日
^ 【DREAM】石井慧が国内初勝利、桜庭和志は生涯初の一本負け!(3) 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年9月25日
^ 【シュートボクシング】立ち技最強はムエタイ!ブアカーオ優勝、サワーは準決勝で敗れる 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年11月23日
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2011年01月06日
石毛大蔵
石毛 大蔵(いしげ だいぞう、男性、1980年11月11日 - )は、日本の元総合格闘家。千葉県銚子市出身。元パンクラスウェルター級王者。
目次 [非表示]
1 経歴
2 戦績
3 獲得タイトル
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク
経歴 [編集]
横芝敬愛高校を経て、大東文化大学を卒業後、アメリカ合衆国へ留学。柔道三段の腕前を持つ。2003年、2004年の全日本サンボ選手権74kg級で優勝。その後、SKアブソリュートに在籍。
2004年9月24日、パンクラスでのデビュー戦を迎え、関直喜と対戦したが、0-1の判定負け。しかしその後、8戦6勝の成績を収めた。2006年8月26日に横浜文化体育館で行われた第2代ウェルター級王者決定戦において、井上克也を3-0の判定で下し王座を獲得した。
しかし2007年5月27日、ディファ有明で開催されたCAGE FORCE EX -eastern bound-のCAGE FORCEウェルター級王座決定トーナメント準々決勝において、ダン・ハーディーに0-3の判定負けを喫したことで、競輪選手への転身を志すようになる[1]。7月27日にパンクラスウェルター級王座防衛戦で井上克也と対戦予定であったが、ハーディー戦でのダメージにより欠場した[2]。同年12月に、パンクラスウェルター級王座を返上した[3]。日本競輪学校へは3度目の受験となる第98期に合格[4]し、2009年5月に同校へ入学。しかし卒業への基準となる走行タイムを出すことができず留年を繰り返しており、現在は第100期に編入されている。
戦績 [編集]
総合格闘技 戦績
11 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
8 勝 2 0 6 0 1 0
2 敗 0 1 1 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× ダン・ハーディー 5分3R終了 判定0-3 CAGE FORCE EX -eastern bound-
【CFウェルター級トーナメント 準々決勝】 2007年5月27日
○ アライケンジ 5分3R終了 判定3-0 パンクラス PANCRASE 2006 BLOW TOUR 2006年12月10日
○ 井上克也 5分3R終了 判定3-0 パンクラス PANCRASE 2006 BLOW TOUR
【ウェルター級キング・オブ・パンクラス・タイトルマッチ】 2006年8月27日
○ 北岡悟 5分3R終了 判定3-0 パンクラス PANCRASE 2006 BLOW TOUR
【ウェルター級タイトルマッチ次期挑戦者決定戦】 2006年5月2日
○ 大石幸史 5分3R終了 判定2-0 パンクラス PANCRASE 2006 BLOW TOUR 2006年1月26日
○ 小路伸亮 5分2R終了 判定2-0 パンクラス PANCRASE 2005 SPIRAL TOUR 2005年11月4日
× 田中達憲 1R 2:07 腕ひしぎ十字固め パンクラス PANCRASE 2005 SPIRAL TOUR 2005年9月4日
○ 長岡弘樹 5分2R終了 判定2-0 パンクラス PANCRASE 2005 SPIRAL TOUR 2005年5月1日
○ 外山慎平 1R 0:35 KO(パウンド) パンクラス PANCRASE 2005 SPIRAL TOUR 2005年2月4日
○ 小池秀信 1R 4:22 TKO(パウンド) パンクラス PANCRASE 2004 BRAVE TOUR 2004年11月26日
△ 関直喜 5分2R終了 判定0-1 パンクラス PANCRASE 2004 BRAVE TOUR 2004年9月24日
獲得タイトル [編集]
第2代パンクラス ウェルター級キング・オブ・パンクラシスト(2006年8月27日 - 2007年12月)
全日本サンボ選手権74kg級(2003年、2004年)
脚注 [編集]
^ 競輪。押忍。 自然堂 2009年1月16日
^ 石毛、ハーディー戦のダメージ大きく欠場 BoutReview 2007年6月19日
^ 返上 自然堂 2008年1月3日
^ 日本競輪学校第98回生徒一般入学試験合格者の発表について KEIRIN.JP 2009年1月16日
関連項目 [編集]
男子総合格闘家一覧
パンクラス王者一覧
目次 [非表示]
1 経歴
2 戦績
3 獲得タイトル
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク
経歴 [編集]
横芝敬愛高校を経て、大東文化大学を卒業後、アメリカ合衆国へ留学。柔道三段の腕前を持つ。2003年、2004年の全日本サンボ選手権74kg級で優勝。その後、SKアブソリュートに在籍。
2004年9月24日、パンクラスでのデビュー戦を迎え、関直喜と対戦したが、0-1の判定負け。しかしその後、8戦6勝の成績を収めた。2006年8月26日に横浜文化体育館で行われた第2代ウェルター級王者決定戦において、井上克也を3-0の判定で下し王座を獲得した。
しかし2007年5月27日、ディファ有明で開催されたCAGE FORCE EX -eastern bound-のCAGE FORCEウェルター級王座決定トーナメント準々決勝において、ダン・ハーディーに0-3の判定負けを喫したことで、競輪選手への転身を志すようになる[1]。7月27日にパンクラスウェルター級王座防衛戦で井上克也と対戦予定であったが、ハーディー戦でのダメージにより欠場した[2]。同年12月に、パンクラスウェルター級王座を返上した[3]。日本競輪学校へは3度目の受験となる第98期に合格[4]し、2009年5月に同校へ入学。しかし卒業への基準となる走行タイムを出すことができず留年を繰り返しており、現在は第100期に編入されている。
戦績 [編集]
総合格闘技 戦績
11 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
8 勝 2 0 6 0 1 0
2 敗 0 1 1 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× ダン・ハーディー 5分3R終了 判定0-3 CAGE FORCE EX -eastern bound-
【CFウェルター級トーナメント 準々決勝】 2007年5月27日
○ アライケンジ 5分3R終了 判定3-0 パンクラス PANCRASE 2006 BLOW TOUR 2006年12月10日
○ 井上克也 5分3R終了 判定3-0 パンクラス PANCRASE 2006 BLOW TOUR
【ウェルター級キング・オブ・パンクラス・タイトルマッチ】 2006年8月27日
○ 北岡悟 5分3R終了 判定3-0 パンクラス PANCRASE 2006 BLOW TOUR
【ウェルター級タイトルマッチ次期挑戦者決定戦】 2006年5月2日
○ 大石幸史 5分3R終了 判定2-0 パンクラス PANCRASE 2006 BLOW TOUR 2006年1月26日
○ 小路伸亮 5分2R終了 判定2-0 パンクラス PANCRASE 2005 SPIRAL TOUR 2005年11月4日
× 田中達憲 1R 2:07 腕ひしぎ十字固め パンクラス PANCRASE 2005 SPIRAL TOUR 2005年9月4日
○ 長岡弘樹 5分2R終了 判定2-0 パンクラス PANCRASE 2005 SPIRAL TOUR 2005年5月1日
○ 外山慎平 1R 0:35 KO(パウンド) パンクラス PANCRASE 2005 SPIRAL TOUR 2005年2月4日
○ 小池秀信 1R 4:22 TKO(パウンド) パンクラス PANCRASE 2004 BRAVE TOUR 2004年11月26日
△ 関直喜 5分2R終了 判定0-1 パンクラス PANCRASE 2004 BRAVE TOUR 2004年9月24日
獲得タイトル [編集]
第2代パンクラス ウェルター級キング・オブ・パンクラシスト(2006年8月27日 - 2007年12月)
全日本サンボ選手権74kg級(2003年、2004年)
脚注 [編集]
^ 競輪。押忍。 自然堂 2009年1月16日
^ 石毛、ハーディー戦のダメージ大きく欠場 BoutReview 2007年6月19日
^ 返上 自然堂 2008年1月3日
^ 日本競輪学校第98回生徒一般入学試験合格者の発表について KEIRIN.JP 2009年1月16日
関連項目 [編集]
男子総合格闘家一覧
パンクラス王者一覧
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