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2011年01月06日

├─≠ョ─ヵラスとゲーリー・オブライト

├─≠ョ─ヵラス 殺人風車
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス オブライトがまだフルネルソン・スープレックスを出していなかった頃、プロレスライターの流智美に「もしオブライトがフルネルソン・スープレックスを使ったら」と話を向けられた安生洋二は「下手したら死人が出る。絶対考えたくない」と言ったという。  

Posted by tokyokarasu2010 at 19:36Comments(0)

2011年01月06日

グレート・東郷

グレート・東郷(Great Togo、本名:ジョージ岡村(George Okamura)1911年10月11日 - 1973年12月17日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。オレゴン州フートリバー出身の日系アメリカ人。日本名:岡村一夫(おかむら かずお)。
生年・出自については諸説あり、父は日本人、母は中国人のそれぞれアメリカ移民であったという説、両親とも日本人で熊本あるいは沖縄から移民したという説、朝鮮半島出身説などが語られていて、真相は不明である(この経緯は下記関連書参照)。
リングネームの変遷はブル・伊藤→ジョージ・岡村→グレート・トージョー(東條)→グレート・東郷。
目次 [非表示]
1 来歴
2 逸話
3 関連書籍
4 外部リンク
来歴 [編集]

第二次世界大戦後のアメリカのプロレス界で頭角を現した。その後来日し、日本プロレス、国際プロレスなどのリングにも上がった。
特に1962年に行われた「噛みつき魔」フレッド・ブラッシーとの一戦は壮絶で、東郷の額から激しく滴り落ちる流血をテレビで見た老人数名がショック死して社会問題になったこともある(自身は後年「血はリングに咲く花」と表現している)。
アメリカのリングでは終戦直後の反日感情を利用してヒールに徹した。米国で軍国主義の頭目と見られていた東條英機の苗字にあやかったリングネーム「グレート・トージョー」を当初名乗ったが、「東條」の名字をそのまま使うのはあまりにも刺激が強すぎるという判断から(実際に米国の巡業先の会場にて観客から暴行を受けたことを日刊スポーツの記者に語っている。)著名な日本人軍人である東郷平八郎にあやかったリングネーム「グレート・東郷」に変更し、晩年までこのリングネームを用いた。リングコスチュームは股引スタイルで、窮地に陥ったときの卑屈な懇願のあとの「股間への蹴り」や塩による「目潰し攻撃」などの反則技を売り物にした(卑屈に許しを乞うた後の反則から当時の観客は真珠湾攻撃を連想した)。
卑劣な反則技や、アメリカ人にとっては不気味なアルカイックスマイル、東洋風のコスチューム、塩をまく「儀式」など東郷独自のレスリングスタイルはその後アメリカにおける日本人及び日系人ヒールレスラーの雛形となり、ザ・グレート・カブキ、グレート・ムタやケンゾー・スズキらに受け継がれていった。
全盛時代の東郷は試合のたびにファンに襲われ、時には銃剣で田楽刺しの刑にされそうになったこともあったという。また、日系人協会から抗議されたこともあった。
日本のリングでは、頭突き攻撃や空手チョップなどの技を使い、根性溢れるベビーフェイスとして活躍した。ブッカーとしても手腕を振るい、グレート・アントニオなどの大物・怪物レスラーを来日させた。アントニオ来日の際は彼の首に鎖をつないで先導するなどマネージャー役も演じている。
日本プロレスのアメリカにおける窓口として、様々なレスラーを斡旋するが、金銭トラブルから力道山死後の日本プロレスから決別される。その報復として、アメリカ遠征中だったジャイアント馬場に高額の契約金を保証してアメリカに定着するように説得するが、失敗に終った。
日本での復活を策して国際プロレスにも協力し、外国人レスラーを斡旋したほかTBS放送開始初戦のルー・テーズ対グレート草津戦において、草津側のセコンドにもついている。しかし軋轢も多く、当初エースとして迎えられる予定だったヒロ・マツダは東郷の参加を嫌い早々に離脱。また日本のプロレス界を乗っ取ろうとしていると思われ、ユセフ・トルコから暴行を受けた(トルコ側は暴行を否定している)。最終的には国際プロレスとも金銭トラブルで決別している。
1973年12月17日、胃癌の手術の経過が思わしくなく、ロサンゼルスにて死去。62歳没。
逸話 [編集]

永源遙がアメリカ修行時代に、グレート・トーゴーのリングネームを名乗っていたことがある。
金銭にまつわるエピソードが多く見られた。ジャイアント馬場がアメリカ武者修行時代、東郷から受けていた注意として、「車の灰皿を使うな」(車を転売する際、一箇所でも痛んでいると安く買い叩かれるため)、「練習すると腹が減るから夕方まで寝ていろ」(食事代をケチるため)等、後に馬場が自著で語っている。力道山の死後に日本プロレスと決別したのも高額なブッキング料が一因であり、TBSプロレス(国際プロレス)のブッカーに就くと予想通り法外なブッキング料をTBSに要求し決裂した。ただし、「高額なブッキング料に見合うだけの豪華メンバーは確かに呼んでいた」と評価する声もあり、現に東郷と決別した後の日本プロレスの外人選手の質ははっきり低下した。
全米で大ヒールとして鳴らしていた頃、1952年には初渡米した空手の大山倍達を「マス東郷」、柔道の遠藤幸吉を「コウ東郷」と名乗らせ、兄弟ギミックの東郷ブラザーズを結成し全米をサーキット。その後、ハワイ出身の日系二世ハロルド坂田(日本名は敏行)が弟の「トシ東郷」となり、東郷ブラザーズを再編したこともあった(東郷本人は日本名の一夫から「カズ東郷」と名乗っていた)。このコンビで1955年、NWA世界タッグ王座を獲得している(日系レスラーでは初)。  

Posted by tokyokarasu2010 at 19:34Comments(0)

2011年01月06日

クルト・フォン・ヘス

クルト・フォン・ヘス(Kurt Von Hess、1942年4月10日 - 1999年3月13日)は、カナダのプロレスラー。オンタリオ州ハミルトン出身。本名はウィリアム・E・テリー(William E. Terry)、通称ビル・テリー(Bill Terry)。
全盛時はナチ・ギミックのドイツ系ヒールとなって、カナダを主戦場に活躍。日本でも昭和期の各団体に参戦し、主にタッグ・プレイヤーとして実績を残した。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 日本での活躍
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

1968年、地元オンタリオのトロントを本拠とするメープル・リーフ・レスリング(フランク・タニー主宰)にて、ビッグ・ビル・テリーのリングネームでデビュー。その後、ナチ・ギミックのクルト・フォン・ヘスに変身し、カルガリーのスタンピード・レスリングに参戦。1971年末に同地区のメインタイトルである北米ヘビー級王座を獲得し、翌1972年2月にキラー・トーア・カマタに敗れるまで保持した[1]。
1972年より、モントリオールにて同じギミックのカール・フォン・ショッツ(ジョン・アンソン)とタッグチームを結成。ザ・シークが牛耳っていたアメリカのNWAデトロイト地区にも進出し、同年12月にザ・ストンパー&ベン・ジャスティスからデトロイト版のNWA世界タッグ王座を奪取、以降1974年にかけて、ショッツとのコンビで同王座を再三獲得した[2]。1974年5月には新日本プロレスに揃って初来日している(後述)。なお、ヘスとショッツのタッグチームは、日本では「戦犯コンビ」と呼ばれた。
コンビ解散後、ヘスはビッグ・ジョン・クイン、ショッツはリングネームを本名のジョン・アンソンに戻してドン・レオ・ジョナサンを新パートナーに、1976年にバンクーバー地区でカナディアン・タッグ王座を争っている[3]。以降はシングル・プレイヤーとなって各地を転戦し、アラバマ地区では1977年にガルフ・コースト・ヘビー級王座を2回獲得[4]。ミッドサウスのトライステート地区では、1978年に当時のドイツ系ヒールの新鋭ジークフリート・スタンキーと組み、レイ・キャンディ&スティーブン・リトルベアからルイジアナ・タッグ王座を奪取した[5]。1980年代初頭は、テネシー州メンフィスのCWAに登場している。
キャリア晩年は古巣のトロント地区(メープル・リーフ・レスリング)に定着し、同地区と提携する各メジャー団体にもベテランのジョバーとして出場。1983年はNWAミッドアトランティック地区(ジム・クロケット・プロモーションズ)にてNWA世界ヘビー級王者のリック・フレアーと対戦[6]。同年12月6日にはWWFでレネ・グレイと組み、当時のWWFタッグ王者チームのロッキー・ジョンソン&トニー・アトラスと対戦するなど[7]、チャンピオン・クラスの大物選手のジョバーを務めた。1984年1月8日にはバズ・ソイヤーの代打として、トロントにてロディ・パイパーとドッグ・カラー・マッチを行っている[8]。
1986年に腎臓病を患い現役を引退[8]。6年以上に及ぶ人工透析を受け、1996年に臓器移植を行ったものの、1999年3月13日、心臓発作により故郷のハミルトンにて死去[8]。56歳没。
日本での活躍 [編集]
初来日は1974年5月、カール・フォン・ショッツと共に「NWA北米タッグ王者チーム」として新日本プロレスに参戦している(初代王者チームのパット・パターソン&ジョニー・パワーズを破り、戴冠したとされる[9]。当初はNWFの世界タッグ王者チームとして来日する予定だった)。6月7日の札幌大会でアントニオ猪木と坂口征二の黄金コンビの挑戦を退けタイトルをアメリカに持ち帰るも、8月16日にロサンゼルスにて猪木&坂口に敗れて王座から陥落[9]。以降、北米タッグ王座は新日本に定着した。
再来日は1977年2月、国際プロレスの『第6回IWAワールド・シリーズ』。同シリーズではシングルのリーグ戦と並行してIWA世界タッグ王座を賭けたタッグ・トーナメントが行われ、ヘスはバンクーバーでもタッグを組んでいたビッグ・ジョン・クインとのコンビで出場。3月25日の横浜大会でアニマル浜口&寺西勇を破って優勝しタイトルを獲得したが、翌26日のシリーズ最終戦(東京・蔵前国技館大会)でグレート草津&浜口に敗れ、1日天下に終わった[10]。国際には翌1978年にも参戦し、5月2日にマスクド・インターン(トム・アンドリュース)と組んで草津&浜口のIWA世界タッグ王座に挑戦している。
1979年1月には新日本プロレスに再登場。2月25日に札幌にてボブ・ループとのコンビで坂口&ストロング小林の北米タッグ王座に挑むも、タイトル奪回は果たせなかった。
1980年8月には全日本プロレスに初参戦。シリーズ中に行われた『PWF杯争奪タッグ・トーナメント』にカール・フォン・スタイガーと組んで出場、1回戦でマスカラス・ブラザーズ(ミル・マスカラス&ドス・カラス)に敗退している。全日本には1982年5月にも来日し、前年のレスリング・ウォーにより新日本から移籍してきたタイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンのタッグ・パートナーを務めたが、体力的な衰えは隠せず、これが最後の来日となった。
得意技 [編集]

ブレーン・クロー
ニー・ドロップ
ネックブリーカー
獲得タイトル [編集]

スタンピード北米ヘビー級王座:1回[1]
インターナショナル・タッグ王座(モントリオール版):1回(w / カール・フォン・ショッツ)[11]
NWA世界タッグ王座(デトロイト版):5回(w / カール・フォン・ショッツ×4、クルト・フォン・ブラウナー)[2]
NWA北米タッグ王座(新日本プロレス版):1回(w / カール・フォン・ショッツ)[9]
NWAカナディアン・タッグ王座(バンクーバー版):1回(w / ビッグ・ジョン・クイン)[3]
IWA世界タッグ王座(国際プロレス版):1回(w / ビッグ・ジョン・クイン)[10]
NWAガルフ・コースト・ヘビー級王座:2回[4]
NWAルイジアナ・タッグ王座:1回(w / ジークフリート・スタンキー)[5]  

Posted by tokyokarasu2010 at 19:34Comments(0)

2011年01月06日

クリス・フォン・エリック

クリス・フォン・エリック(Chris Von Erich、1969年3月2日 - 1991年9月12日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。本名はクリス・アドキッセン(Chris Adkisson)。「鉄の爪」フリッツ・フォン・エリックの息子(六男。レスラーのエリック兄弟としては五男)である。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 脚注
4 外部リンク
来歴 [編集]

4人の兄達(ケビン、デビッド、ケリー、マイク)より身体が小さかったためプロレス入りは無いものと思われたが、兄達のセコンドについていた際に幾度となく乱闘に加勢し、1990年より選手としてもデビュー。
父フリッツのWCCWがテネシー州メンフィスのCWAと合併して発足したUSWAのダラス支部にて、悪徳マネージャーのパーシー・プリングル3世と抗争。兄ケビンやクリス・アダムスとタッグを組み、若手時代のスティーブ・オースチンなどプリングルがマネージメントするヒールとも対戦した。
1991年9月12日、ピストル自殺で死去[1]。21歳没。彼は喘息に苦しみ、またプロレスラーとしては非常に小柄だったこともあってステロイド剤を常用していたという[2][3]。
2009年4月、フォン・エリック一家の一員としてWWE殿堂に迎えられた。
得意技 [編集]

アイアンクロー
脚注 [編集]

^ “Chris Von Erich died at the age of 21”. Find a Grave. 2010年9月10日閲覧。
^ “Who's who in the Von Erich Family?”. About.com. 2010年9月10日閲覧。
^ “Wrestler Profiles: Chris Von Erich”. Online World of Wrestling. 2010年9月10日閲覧。
外部リンク [編集]

The Official Website of the Von Erich Family
WWE Hall of Fame
Online World of Wrestling
[隠す]
表・話・編・歴
WWE殿堂
1993年
アンドレ・ザ・ジャイアント
1994年
アーノルド・スコーラン | ボボ・ブラジル | バディ・ロジャース | チーフ・ジェイ・ストロンボー | フレッド・ブラッシー | ゴリラ・モンスーン | ジェームス・ダッドリー
1995年
アントニオ・ロッカ | アーニー・ラッド | ジョージ・スティール | イワン・プトスキー | ザ・ファビュラス・ムーラ | ザ・グラン・ウィザード | ペドロ・モラレス
1996年
ジミー・スヌーカ | ジョニー・ロッズ | キラー・コワルスキー | キャプテン・ルー・アルバーノ | バロン・マイケル・シクルナ | パット・パターソン | ザ・バリアント・ブラザーズ(ジミー・バリアント、ジョニー・バリアント) | ビンス・マクマホン・シニア
2004年
ビッグ・ジョン・スタッド | スーパースター・ビリー・グラハム | ボビー・ヒーナン | ドン・ムラコ | グレッグ・バレンタイン | ハーリー・レイス | ジェシー・ベンチュラ | ジャンクヤード・ドッグ | サージェント・スローター | ティト・サンタナ | ピート・ローズ
2005年
カウボーイ・ボブ・オートン | ハルク・ホーガン | ジ・アイアン・シーク | ジミー・ハート | ニコライ・ボルコフ | ポール・オーンドーフ | ロディ・パイパー
2006年
ザ・ブラックジャックス(ブラックジャック・マリガン、ブラックジャック・ランザ) | ブレット・ハート | エディ・ゲレロ | ジーン・オーカーランド | センセーショナル・シェリー | トニー・アトラス | バーン・ガニア | ウィリアム・ペリー
2007年
カート・ヘニング | ダスティ・ローデス | ジェリー・ローラー | ジム・ロス | ミスター・フジ | ニック・ボックウィンクル | ザ・シーク | ザ・ワイルド・サモアンズ(アファ・アノアイ、シカ・アノアイ)
2008年
ザ・ブリスコ・ブラザーズ(ジャック・ブリスコ、ジェリー・ブリスコ) | エディ・グラハム | ゴードン・ソリー | メイ・ヤング | ピーター・メイビア | リック・フレアー | ロッキー・ジョンソン
2009年
ビル・ワット | ハワード・フィンケル | ザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク) | ココ・B・ウェア | リッキー・スティムボート | ストーン・コールド・スティーブ・オースチン | ザ・フォン・エリックス(フリッツ・フォン・エリック、ケビン・フォン・エリック、デビッド・フォン・エリック、ケリー・フォン・エリック、マイク・フォン・エリック、クリス・フォン・エリック)
2010年
アントニオ猪木 | テッド・デビアス | マッドドッグ・バション | ウェンディ・リヒター | ゴージャス・ジョージ | スチュ・ハート | ボブ・ユッカー
  

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2011年01月05日

スティーブ・ライト

スティーブ・ライト(Steve Wright、1952年12月12日 - )は、イギリス・ウェリントン出身の元プロレスラー。
イギリスやドイツなどヨーロッパを主戦場に、日本では1970年代半ばから1980年代にかけて、新日本プロレスのリングで活躍。ヨーロピアン・スタイルの洗練されたレスリング技術と、軽業師を思わせるアクロバティックな動きを武器に、初代タイガーマスクらと好試合を展開した。
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1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

1969年、英国のジョイント・プロモーションにてデビュー。1972年に旧西ドイツに渡り、当時のAWA世界ヘビー級王者バーン・ガニアとも対戦している[1]。1974年はメキシコに遠征し、その提携ルートでアメリカのNWAロサンゼルス地区でも試合を行った[2]。
1975年1月、新日本プロレスに初来日。以降も新日本の常連外国人選手となり、1977年10月の来日では、負傷したクルト・フォン・ストロハイムの代打としてパット・パターソンのパートナーに起用され、坂口征二&ストロング小林の北米タッグ王座に挑戦した。
1982年3月には第5回MSGシリーズに来日(リーグ戦には不参加)、タイガーマスクのWWFジュニアヘビー級王座に連続挑戦し、名勝負を残している。なお、木戸修はライトについて「自分が戦ったレスラーでは一番上手かった」と語っている[3]。
ヨーロッパでは1980年代よりドイツのニュルンベルクに在住し、ポール・バーガーやアルフレッド・ジーグラーのプロモーションで活動[2]。キャリア末期の1990年には、オットー・ワンツ主宰のCWAにてデイブ・フィンレーと世界ミドル級王座を争った[4]。
息子のアレックス・ライトも元プロレスラーであり、1990年代にアメリカのWCWで活動した(ドイツ人ギミックのヒール "ベルリン" として知られる)[5]。
得意技 [編集]

フライング・ヘッドシザース
ロメロ・スペシャル
オクトパス・ホールド
サイド・スープレックス
獲得タイトル [編集]

CWA世界ミドル級王座:3回 [4]  

Posted by tokyokarasu2010 at 01:52Comments(0)

2011年01月05日

スティーブ・カーン

スティーブ・カーン(Steve Keirn)ことステファン・ポール・カーン(Stephen Paul Keirn、1951年9月10日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。フロリダ州タンパ出身。
1980年代のスタン・レーンとのタッグチーム「ファビュラス・ワンズ」、1990年代のWWFでの「スキナー」などの活動で知られる。近年はWWEのファーム団体FCWのディレクターを務めている。
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1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

エディ・グラハムが主宰する地元フロリダのCWF(Championship Wrestling from Florida)にて1972年にデビュー。1975年4月には全日本プロレスに初来日している。以降もCWFを主戦場に、正統派レスリングを身上とするベビーフェイスとして活動、1976年にはボブ・バックランドと組んでボブ・ループ&ボブ・オートン・ジュニアからNWAフロリダ・タッグ王座を奪取した[1]。
1979年12月10日、前王者ネルソン・ロイヤルの引退で空位となっていたNWA世界ジュニアヘビー級王座決定トーナメントにて、決勝でチャボ・ゲレロを破り新王者となる[2][3]。翌1980年1月、新日本プロレスに来日。札幌でWWFジュニアヘビー級王者の藤波辰巳とダブル・タイトルマッチを行うが敗退、王座から陥落した(以後、同王座は「NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座」として日本に定着)[3]。
その後はジョージアのGCWに参戦し、バロン・フォン・ラシクからNWAジョージア・ヘビー級王座[4]を、テリー・ファンクとケビン・サリバンからNWAナショナルTV王座[5]をそれぞれ奪取。1981年からはテネシーのCWAに進出、ロン・バスやバグジー・マグローら巨漢ヒールを破りミッドアメリカ・ヘビー級王座を獲得した[6]。
1982年、フロリダでのライバルでもあったスタン・レーンを相棒に、ファビュラス・ワンズ(The Fabulous Ones)をCWAにて結成する。それまでの地味なイメージを払拭し、コスチュームも派手なものに一新。1980年代のアイドル系タッグチームの先駆的存在となり、後のロックンロール・エクスプレスやファンタスティックスなどにも影響を与えた。CWAでは1982年から1985年にかけてAWA南部タッグ王座を通算14回獲得[7]、1984年にはバーン・ガニアが牛耳るAWA本体にも出場し、ロード・ウォリアーズとも激闘を展開している。
1987年のファビュラス・ワンズ解散後はフロリダ地区に戻り、CWFの後継団体FCW(Florida Championship Wrestling)にて1989年頃まで活動。1990年にはCWAの後継団体であるテネシーのUSWAでファビュラス・ワンズを一時的に再結成した。また、この時期よりプロレスリング・トレーナーとしての活動も開始しており、デニス・ナイト、マイク・オーサム、ジム・スティール、ジェフ・ファーマーらがカーンの指導のもとデビューしている。
1991年夏、エバーグレーズのワニ密猟者をイメージしたヒール、スキナー(Skinner)に変身してWWFに登場。ボロボロのネルシャツをリング・コスチュームに、噛みタバコで口中を真っ黒に染め、狩猟ナイフやワニの爪を凶器に用いるなど、大胆なキャラクターチェンジを図った。ジョバーのポジションながら、ベテランの中堅ヒールとしてWWFには1993年下期まで在籍し、1991年12月3日にはPPV "This Tuesday in Texas" にてブレット・ハートのインターコンチネンタル王座にも挑戦。1993年4月4日のレッスルマニア9では2人目のドインク・ザ・クラウン(Doink the Clown)に扮した[8]。
1994年からはWCWに参戦。盟友スタン・レーンのパートナーでもあった元ミッドナイト・エクスプレスのボビー・イートンと組み、新チームのバッド・アティテュード(Bad Attitude)を結成するも活躍の機会には恵まれず、PPVのダーク・マッチなどに出場していた。WCW解雇後はセミリタイアし、タンパ周辺のインディー団体に単発的に出場。2001年10月には久々に新日本プロレスに来日し、かつてのライバル藤波とのタッグも実現させた。
2004年よりスマックダウンのロード・エージェントとしてWWEと契約し、翌2005年5月にフロリダ州デイトナビーチにプロレスラー養成所 "School of Hard Knocks" を開校(後にフロリダ州ブランドンに移転)。2007年には、かつて主戦場としていたフロリダ地区の団体と同じ名称の新団体 "FCW" をWWEのファーム組織として旗揚げし[9]、現在まで団体運営と後進の指導・育成に携わっている。
得意技 [編集]

ゲーターブレーカー(Gatorbreaker) ※スキナー時代に使用
フォアアーム・スマッシュ
ジャーマン・スープレックス
獲得タイトル [編集]

CWF
NWAフロリダ・ヘビー級王座:5回
NWAフロリダ・タッグ王座:12回(w / マイク・グラハム×9、ジム・ガービン、ボブ・バックランド、ブライアン・ブレアー)
NWAフロリダTV王座:1回
NWAブラスナックル王座(フロリダ版):1回
NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):2回
NWA北米タッグ王座(フロリダ版):1回(w / マイク・グラハム)
NWA USタッグ王座(フロリダ版):5回(w / マイク・グラハム×3、スタン・レーン×2)
GCW
NWAジョージア・ヘビー級王座:1回
NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / ミスター・レスリング)
NWAナショナルTV王座:2回
CWA / USWA
NWAミッドアメリカ・ヘビー級王座:2回
AWA南部ヘビー級王座:1回
AWA南部タッグ王座:17回(w / スタン・レーン×14、ビル・ダンディー×2、テリー・テイラー)
CWAインターナショナル・タッグ王座:1回(w / マーク・スター)
CWA世界タッグ王座:2回(w / スタン・レーン)
USWA世界タッグ王座:1回(w / スタン・レーン)
その他
NWA世界ジュニアヘビー級王座(NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座):1回
NWA USタッグ王座(ガルフ・コースト版):1回(w / リッキー・ギブソン)
SCW世界タッグ王座:1回(w / スタン・レーン)  

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2011年01月05日

スティービー・レイ

スティービー・レイ(Stevie Ray)のリングネームで知られるレーン・スティーブン・ハフマン(Lane Steven Huffman 、1960年8月22日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。テキサス州ヒューストン出身のアフリカ系アメリカ人。
現役選手時代は実弟のブッカー・Tとのタッグチーム "ハーレム・ヒート" などで活動した。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

1989年、師匠のイワン・プトスキーが主宰していたテキサスのインディー団体においてスーパー・コライダー(Super Collider)のリングネームでデビュー。1991年、ダラスのグローバル・レスリング・フェデレーション(GWF)にてスティービー・レイ(Stevie Ray)と改名し、弟のブッカー・Tとエボニー・エクスペリエンス(The Ebony Experience)を結成。ベビーフェイスのポジションで活動し、1992年から1993年にかけてGWFタッグ王座を通算3回獲得した[1]。1992年10月には「ブラック・ボンバーズ」の名義で桜田一男らが主宰していたネットワーク・オブ・レスリングに初来日している。
1993年8月、ブッカー・Tと共にWCWに参戦。カーネル・ロバート・パーカーをマネージャーに迎えてヒールに転向し、ニューヨークのハーレム出身という設定のもと、チーム名をハーレム・ヒート(Harlem Heat)に改めた。1994年からはシスター・シェリーを新しいマネージャーに、12月にマーカス・バグウェル&ザ・パトリオットからWCW世界タッグ王座を奪取[2]。以降1997年までブッカー・Tとのハーレム・ヒートで活躍、同タッグ王座を再三に渡って獲得した。この間、1996年3月には新日本プロレスに揃って来日している。
詳細は「ハーレム・ヒート」を参照
1997年秋、ミング&ザ・バーバリアンとの試合で足首を負傷。長期欠場を余儀なくされ、その間にブッカー・Tはベビーフェイスのシングル・プレイヤーとして成功を収める。しかし、復帰後のスティービー・レイは弟と袂を分かち、1998年にハリウッド・ハルク・ホーガンの誘いでnWoに加入。ブライアン・アダムスやスコット・ノートンなどで構成されたnWoブラック&ホワイト(nWo black & white)と呼ばれるBチームのリーダー格となった。
1999年、ブッカー・Tの説得によりnWoを離れ、フェイスターンしてハーレム・ヒートを再結成。8月にバンバン・ビガロ&クリス・キャニオンを破り、WCW世界タッグ王座に返り咲く[2]。10月のPPV "Halloween Havoc 1999" ではコナン&ビリー・キッドマン、ブライアン・ノッブス&ヒュー・モラスとのトリプルスレットマッチを征し、同タッグ王座への10度目の戴冠を果たした[2][3]。
しかし、ブッカー・Tがハーレム・ヒートのセコンドとして黒人女性ボディビルダーのミッドナイト[4]を帯同し始めたことにより、兄弟の間に再び亀裂が発生。ミッドナイトとのミックスドマッチに敗れたことを機にスティービーはヒールに戻り、ビッグ・Tを新しいパートナーにハーレム・ヒート2000(Harlem Heat 2000)を結成、「ハーレム・ヒート」の名称使用権を巡り実弟との骨肉の抗争を展開する。悪徳弁護士のJ・ビッグス[5]をマネージャーに雇い、入場テーマ曲やリングネームの変更をブッカー・Tに強要するなどしたが、2000年3月のPPV "Uncensored 2000" にてブッカー&ビリー・キッドマンに敗退[6]。以後ハーレム・ヒート2000は解散し、スティービー・レイは現役を離れて "WCW Thunder" のカラー・コメンテーターに転じた。
2001年のWCW崩壊後はオーストラリアのワールド・レスリング・オールスターズ参戦を経て、2002年に引退。リタイア後は2005年に地元のヒューストンにてプロレスリング・アカデミー併設のインディー団体PWAをブッカー・Tと共に主宰[7]。元WWEスーパースターのブギーマンもPWAで再トレーニングを積んでいた。
得意技 [編集]

110thストリート・スラム(110th Street Slam)
スラップジャック(Slapjack)
ベアハッグ
バックブリーカー
フライング・クローズライン
獲得タイトル [編集]

GWF
GWF北米ヘビー級王座:1回
GWFタッグ王座:3回(w / ブッカー・T)
WCW
WCW世界タッグ王座:10回(w / ブッカー・T)
脚注 [編集]

^ “GWF Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年1月20日閲覧。
^ a b c “WCW World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年9月17日閲覧。
^ “Halloween Havoc 1999 Results”. ProWrestling History.com. 2010年9月17日閲覧。
^ “Wrestler Profiles: Midnight”. Online World of Wrestling. 2010年9月17日閲覧。
^ “Wrestler Profiles: Clarence Mason”. Online World of Wrestling. 2010年9月17日閲覧。
^ “Uncensored 2000 Results”. ProWrestling History.com. 2010年9月17日閲覧。
^ “Pro Wrestling Alliance”. PWA Official Website. 2010年9月17日閲覧。  

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2011年01月03日

クリス・マスターズ

クリス・マスターズ(Chris Masters、1983年1月8日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラーである。本名はクリス・モルデツキー(Chris Mordetsky)。
ザ・マスターピース(The Masterpiece)の異名でも知られる。カリフォルニア州サンタモニカ出身。身長193cm、体重124kg。WWEのSmackDown!に所属している。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 入場曲
4 獲得タイトル
5 外部リンク
来歴 [編集]

元々はボディビルをしており、カリフォルニア州のボディビルディング王者でもあった。
2002年にプロレスデビュー。アメリカのプロレス団体UPWにてトレーニングを積んだ後、WWEの下部組織であるOVWに移籍。2005年にWWEのRAWに登場。WWE登場に際し、The Masterpiece(最高傑作)の愛称がつけられた。デビュー戦において、対戦相手のスティーブン・リチャーズの鼻を破壊した。
その後しばらく自分のマスター・ロックを外せたら賞金がもらえるという「マスター・ロック・チャレンジ」という企画を主催し、数々の強豪たちを退けてきたが、2007年3月にボビー・ラシュリーにとうとう破られ、マスター・ロックの不敗神話は終焉した。
過去デビューしてからは、ビッグ・ショー、シェルトン・ベンジャミンと抗争を繰り広げていたが、サマースラム後はカリートと手を組んで、ベビーフェイスに戻ったショーン・マイケルズ、トリプルHの負傷欠場によりシングルレスラーとしてフェイスターンしたリック・フレアーと抗争。2005年10月に入りリック・フレアーとの抗争は終了したが、10月21日のスマックダウン収録に登場し、エッジとともにレイ・ミステリオを襲撃しマスター・ロックをかける。これをきっかけとしてスマックダウンのスーパースターとの抗争を開始した。11月のスマックダウン収録では、マスター・ロックをスマックダウンのGMであるセオドア・ロングにかけるなど両番組間の抗争でも大きな活躍を見せ、サバイバー・シリーズでのRAW対スマックダウンの対抗戦でも、RAW代表に入った。
2006年1月のNew Year's Revolutionではエリミネーション・チェンバー・マッチ出場者の一人としてWWE王座に挑戦するまでに成長。そのエリミネーション・チェンバー・マッチや続くRoyal Rumbleでは共闘していたはずのカリートに敗退させられた。カリートとはタッグチームとしても活動、その微妙な関係はWrestleMania 22において世界タッグ王座戦で敗退するまで続いた。その試合を機に抗争に突入。
2006年後半にステロイド使用で謹慎処分を受ける。謹慎があけてからは体つきも明らかに変わってしまった。
2007年のドラフトでSmackDown!に移籍するが同年11月にドラッグ違反を2回繰り返し(3回だったとも言われている)WWEから解雇を通達された。
その後はドラッグから立ち直り、インディレスラー兼フィットネス・トレーナーとして活動し、日本のIGFにも参戦した。
2009年7月27日のRAWでWWEに復帰。復帰戦ではMVPを相手にし、カウントアウトで引き分けとなった。復帰当初はヒールとして活動していたが、その後コメディ要員としての出演が多くなった。そして12月のRAWでチャボ・ゲレロに襲われているホーンスワグルを救出し、ベビーフェイスに転向。その後イヴ・トーレスとの恋愛ストーリーが組まれたがすぐに終了となり、以降TVに登場しなくなる。2010年4月末の追加ドラフトによりSmackDown!へと移籍した。しばらくはジョバーの役割であったが、11月のサバイバーシリーズでは4年ぶりのPPV出場を果たす。NXTシーズン4ではプロとして参加する。
得意技 [編集]



マスター・ロックを仕掛けるクリス・マスターズ
マスター・ロック
フィニッシャー。
フルネルソンスラム
2007年から使用のフィニッシャー。マスター・ロックのフェイント技として使用することが多い。
サモアン・ドロップ
入場曲 [編集]

Overdrive - 現在使用中
Masterpiece
獲得タイトル [編集]

OVW
OVW南部タッグ王座 : 1回(パートナー : Brent Albright)  

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2011年01月03日

デビッド・ヒース

デビッド・ヒース(David Heath、1969年2月16日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。フロリダ州タンパ出身。ギャングレル(Gangrel、日本では「ガングリル」「ギャングリル」「ガングレル」と表記される場合もある)、ザ・バンパイア・ウォリアー(The Vampire Warrior)などのリングネームで知られる。
元妻は往年の名レスラー、ブッチャー・バション(マッドドッグ・バションの実弟)の娘のルナ・バション。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 入場曲
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

ディーン・マレンコのトレーニングを受け、1988年にデビュー。地元フロリダのインディー団体を経てカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングに参戦し、トム・ナッシュとの覆面タッグチーム、ザ・ブラックハーツ(The Blackhearts)を結成。ナッシュはアポカリプス、ヒース自身はデストラクションを名乗り、黒装束に白い仮面、その下には顔全体が隠された黒覆面という、『オペラ座の怪人』をイメージした怪奇派タッグとしてセンセーショナルな存在となる。
1991年2月にはブラックハーツとして全日本プロレスに初来日。来日前に専門誌で特集が組まれるなど前人気は上々だったが、キャリア不足もあって試合ではインパクトを残せなかった。同年9月の再来日ではダグ・ファーナス&ダニー・クロファットのカンナム・エクスプレスが保持するアジアタッグ王座に挑戦。後楽園ホールでスタン・ハンセン&ダニー・スパイビーとも対戦している。
その後ブラックハーツを脱退して素顔になり、1993年にメンフィスのUSWAで吸血鬼ギミックのバンパイア・ウォリアーに変身。後に妻となるルナ・バションをマネージャーに従え、ジェフ・ジャレットからUSWA南部ヘビー級王座を奪取した。1994年にはIWAジャパンに来日し、1995年はECWに登場してトミー・ドリーマーと抗争。その後フロリダに戻り、アゴニーことバリー・ヒューストンとブラックハーツを再編、1996年にルナを帯同してIWAジャパンに再来日した。
1998年8月、吸血鬼ギミックはそのままに、ギャングレルのリングネームでWWF(現・WWE)に登場。血(を模した液体)の入ったゴブレットを手に炎の中から登場し、その血をリングインの際に口に含んで噴射させる入場パフォーマンスでヒール人気を呼ぶ。同年11月よりエッジ、クリスチャンとゴシック系ユニットのザ・ブルード(The Blood)を結成。後にこの3人はジ・アンダーテイカー率いる「ミニストリー・オブ・ダークネス」の一員となった。エッジ&クリスチャンと別れた後は、彼らと反目していたハーディー・ボーイズを仲間に引き入れニュー・ブルードを組むが短命に終わる。以降は『ヒート』など前座番組のポジションに甘んじ、体重増加の問題もあって2001年にWWFを解雇された。
インディー団体を転戦した後、2004年にWWEと再契約を交わす。9月16日のスマックダウンではミニストリー時代の盟友ヴィセラと共にアンダーテイカーとJBLの番外戦に乱入、かつての主君アンダーテイカーを襲撃した。翌週にはヴィセラとのコンビでアンダーテイカーとのハンディキャップ・マッチが組まれるが敗退。以降は出演機会を与えられずにフェードアウトした。
2005年3月よりWWEの下部組織OVWに登場し、その後WWEにも登場予定だったが7月5日に解雇。2006年、WWE内の第3ブランドとして復活したECWに出演予定で再々契約を交わすも、このときも一度も番組に登場することなく2007年に契約を解除された。その後、同年12月10日に行われたRAW15周年記念大会の15人参加バトルロイヤルに出場している。
近年はカリフォルニアに在住し、西海岸や深南部のインディー団体を中心に活動。イギリスのオールスター・プロモーションなどヨーロッパにも頻繁に遠征している。2009年11月にはハルク・ホーガンがオーストラリアにて主宰したハルカマニアツアーに参加した[1]。
なお、彼の妻だったルナ・バションは、もともとはブラックハーツの相方トム・ナッシュと結婚していた[2][3]。バションはナッシュと別れた後、ヒースと1994年に再婚し2児をもうけたが、2006年に離婚している[4]。
得意技 [編集]

 インペイラー(インプラント式DDT)
 コークスクリュー・エルボー(ドライビング・エルボー・ドロップ)
 ブラッド・スピット
 かんぬきスープレックス
入場曲 [編集]

The Brood  

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2011年01月03日

デビッド・キャッシュ

デビッド・キャッシュ(David Cash、1969年7月31日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラーである。テネシー州ジョンソンシティー生まれ。キッド・キャッシュ(Kid Kash)のリングネームで知られる。元WWEのSmackDown!所属。キャッシュはアメリカのミュージシャン、キッド・ロック(Kid Rock)に容姿が似ていることからのこのリングネームになった。またキャッシュのエントランステーマ曲もキッド・ロックの代表曲「Bawitdaba」に似ている。左腕に「過心」のタトゥーがある。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 2005年
1.2 2006年
1.3 2007年
2 リング・ネーム
3 得意技
4 タイトル歴
5 外部リンク
経歴 [編集]

1990年プロレスデビュー。インディ団体で活動後1995年から1997年までECWで活動する。1997年にWWF(現WWE)へ入団するが6か月で退団。ECWへ戻り、団体が消滅する2001年まで在籍する。なお、最後のECW TV王座でもあった。 2002年にTNAが設立されると同団体を活動の中心とし、TNAディビジョンX王座戦線やタッグ王座戦線で活躍した。
2005年 [編集]
2005年4月19日にTNAを退団後WWEと契約、同年5月25日にOVWに登場する。6月19日にはヒートに登場してタジリと試合をするが、8月3日にはギミックの調整のためにWWEの下部団体DSWへ送られた。8月中にスマックダウンの下部番組ヴェロシティに再登場。以降スマックダウンのクルーザー級戦線のレスラーとして活動を開始し、2005年のアルマゲドンにおいてクルーザー級王座を獲得した。
2006年 [編集]
2006年、ジェイミー・ノーブルとピットブルズというタッグチームを組んで活動していたが同年9月27日付けで素行不良によりWWEを解雇された。
2007年 [編集]
TNAに参戦した。
リング・ネーム [編集]

デビッド・タイラー・モートン・ジェリコ
デビッド・キャッシュ
キッド・キャッシュ(現在使用中)
得意技 [編集]

デッド・レベル(垂直落下式ブレーンバスター)
ムーンサルトプレス
マネーメイカー(ダブルアームパイルドライバー)
WWE時代の最初のころにフィニッシュに筋肉バスターを使っていたときに実況にマネーメイカー2、といわれていた。
タイトル歴 [編集]

TNA
TNA Xディヴィジョン王座 : 1回
WWE
WWE・クルーザー級王座 : 1回
ECW
ECW・TV王座 : 1回  

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2011年01月03日

オーランド・ジョーダン

オーランド・ジョーダン(Orlando Jordan)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。バージニア州リッチモンド出身。身長190cm、体重113kg。OJの通称でも知られ、胸に漢字で山猫というタトゥーをしている。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 ポーズ
4 タイトル歴
5 その他
6 外部リンク
来歴 [編集]

アマチュアレスリング時代からアメリカ国内で活躍をしており、その後ザ・ロックの父親である、ロッキー・ジョンソンの元でトレーニングを行い、2000年にプロレスデビューを果たす。
WWEでのデビュー戦は2003年5月31日のヴェロシティでのジェイミー・ノーブル戦。TV収録でのデビューは、同年6月26日、マディソン・スクエア・ガーデンにて行われたSmackDown!の収録である。当時ヒール役であったジョン・シナと戦い、負けはしたものの試合後ジ・アンダーテイカーとリングで握手する場面が見られた。
その後もベビーフェイスとして活動していたが、2004年のグレート・アメリカン・バッシュでWWE王者となったJBLの補佐官としてJBL内閣入りし、一転してヒールとなる。そしてバシャム・ブラザーズと共にJBLの王座保持をサポートする。 デビュー時はスキンヘッドであったが、内閣入りした後は髪を伸ばし始めた。
2005年3月にはジョン・シナからUS王座を奪取する。その後8月のサマースラムでクリス・ベノワに王座を奪われる。ベノワに王座を奪われてからは毎週のようにベノワに挑んではクリップラー・クロスフェイスでタップ負けするのが恒例となっていた。
2006年始めから上層部がベビーフェイスへの転向を画策するものの、ファンが依然ヒールとして見なしたため、その案は短期間で消えてしまった。これに伴い、ジョーダンは登場する機会を失い、「ヴェロシティ」内で若手と対戦することが増えてしまい、5月26日付けでWWEを解雇される。
その後はインディ団体を転戦し、2007年には新日本プロレスに参戦した。
現在はTNAを主戦場にしている。
得意技 [編集]

Black Outブラック・アウト
コンプリートショット。
Orlando Shuffleオーランド・シャッフル
連続ジャブで最後の一撃の前に足を交差させる動きを入れる。
ポーズ [編集]

OJと宙に指で描くポーズ。
またコーナー上では両手を上空に掲げる独特のポーズをしていた。
タイトル歴 [編集]

WWE
US王座 : 1回
MCW
MCW王座 : 1回
アマレス
ナショナルレスリング王者 : 2回
オールアメリカレスリング王者 : 2回
Regionalレスリング王者 : 3回
バージニア州フリースタイルレスリング王者 : 1回
全米レスリング王者 : 2回
その他 [編集]

幼少時の頃は会話が上手く出来なかったため自閉症と誤診されていた。
バイセクシャルでありまたその事を公に認めている。またWWEを解雇された理由について、当時のボーイフレンドを会場に連れて来ていたためとされる。
生年月日については1976年4月21日、1978年7月10日、1971年7月10日など諸説あり。  

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2011年01月03日

真琴

真琴(まこと、1989年9月26日 - )は、日本の女子プロレスラー。本名非公開。身長167cm、体重53kg。兵庫県神戸市出身。アイスリボン所属。
ミスター雁之助が代表を務める鬼神道プロダクションに所属し、芸能活動も行っている。
目次 [非表示]
1 経歴・戦歴
2 人物
3 得意技
4 タイトル歴
5 入場テーマ曲
6 その他
6.1 DVD
6.2 映画
6.3 テレビ出演
6.4 コラム連載
6.5 インターネットラジオ
7 外部リンク
経歴・戦歴 [編集]

2006年
2月、さくらえみに電子メールで入門を直訴し、我闘姑娘に練習生として入団。
7月25日、第2回アイスリボン・千本桜ホール大会で、りほを相手にアイスリボン所属としてマットデビュー。
9月17日、NEO女子プロレス・後楽園ホール大会で元気美佐恵・りほ組相手にリングデビュー(パートナーは植松寿絵)。
10月15日、千本桜ホール大会、第一部でメカマミーとのシングルマッチを、第二部ではチェリーをパートナーに、同じくメカマミーとハンディキャップマッチを行う。
2007年
2月18日、NEO女子プロレス・川崎市体育館大会で行われたイリミネーションマッチにおいて、オーバー・ザ・トップロープでタニー・マウスから初勝利を挙げる。
9月8日、Future Star北沢タウンホール大会で、みなみ飛香から初のピンフォール勝ちを収める。(パートナーは希月あおい)
2008年
2月1日、アイスリボン・市谷大会で、三田英津子をパートナーにNEOマシンガンズ(タニー・マウス&宮崎有妃)の持つインターナショナル・リボンタッグ王座に挑戦し、勝利。初タイトルを獲得した。
7月13日、NEO女子プロレス・後楽園ホール大会で、三田英津子をパートナーに第7回ミッドサマータッグトーナメントに出場。1回戦で木村響子・江本敦子組に敗退。
10月18日、アイスリボン・新木場1stRING大会で自ら提唱し作製したICE×60チャンピオンベルトを披露。同年11月15日 新木場大会、12月23日 北沢大会で行われた初代王者決定トーナメントに出場するが、決勝で聖菜に敗退。
2009年
7月29日、初のイメージDVD「ミラクルハンター」が発売される。
8月23日、アイスリボン後楽園ホール大会において、ライジングスタースープレックスホールドで市来貴代子を破り、第3代ICE×60王者となる。
11月1日、NEO女子プロレス・後楽園ホール大会、三田英津子引退興行でラストシングルマッチの対戦相手を務めた。
12月28日、2009年日刊バトル大賞女子プロレス部門敢闘賞を受賞。
2010年
6月1日、19時女子プロレス旗揚げ戦にて帯広さやかとシングルマッチで対戦し、勝利。
8月25日、アイスリボン道場マッチにて藤本つかさとシングルマッチで対戦し、勝利。後楽園ホール大会で行われるセンダイガールズとのキャプテンフォール10人タッグマッチにおけるキャプテンに就任する(仙女側主将は花月(石野由加莉))。
9月13日、バンビと須山浩継によるイベント「バンビの塩辛ナイト3 〜女子プロレスの正しいお色気を真剣に語り合う夕べ」にモデルとして出演。
9月23日、アイスリボン後楽園ホール大会において仙女との対抗戦を戦い、最後は花月との一騎打ちの末に敗れる。
10月15日、ZERO1新木場1stRING大会「酔いどれナイト」においてバンビと対戦し、敗れる。
10月27日、アイスリボン道場マッチにて牧場みのりと組み、さくらえみ・高橋奈苗組の持つインターナショナル・リボンタッグ王座に挑戦するも敗退。
11月28日、NEO女子プロレス・東京キネマ倶楽部大会、「日米加墨濠5ヶ国対抗国際Aマッチ」で田村欣子、ヘイリー・ヘイトレッドと組み、マディソン・イーグル、チェリーボム、セクシー・スター組と対戦。ヘイリーがチェリーボムからフォールを奪い、勝利。
人物 [編集]

デビュー後しばらくは「無気力ファイター」とコールされ、それまでに類を見ないひ弱なプロレスラーとして注目された。
初勝利を上げて以降は「ミラクルハンター」とコールされている。
中学時代は登校拒否。高校は一年で中退。元・対人恐怖症で引きこもりである。
家で三国無双などのゲームやひぐらしのなく頃になどのアニメを見ていたらしく、ゲーム&アニメ好きのアキバ系である。特に真・三国無双の貂蝉を敬愛している。
趣味はコスプレ、絵を描くこと、妄想。同じくアキバ系の都宮ちいと共にコミケ会場周辺でチラシ配りをする事も。
ホラー映画が好きである。
愛読誌はコミック百合姫とpopteenと電撃レイヤーズ。
猫好きで、自宅でも2匹の猫を飼っている。
WWEファンでもあり、目標としている選手はトリッシュ・ストラタス。好きな男子選手はジェフ・ハーディー。
好きな色は紫。ただし濃い紫はあまり好きでなく、藤色のような薄い紫が好み。
好きなレスラーは、三田英津子。事あるごとに「我愛三田さん」精神を発揮する。
星座はてんびん座。
血液型はO型。
スポーツ歴は空手(和道流)とバレーボール。
ビッグマッチで着用しているコスチューム(ガウン)は、三田英津子が着用していたものを18歳の誕生日に譲り受けたもの。以前は、同じく三田英津子から譲り受けたスカジャンも入場時に着用していた。
デビューから約4年間に渡ってアイスリボン全大会皆勤を続けていたが、2010年8月21日アイスリボン・212を都合により欠場したため、連続出場記録が途切れた。
2009年8月29日戸田競艇場大会や、2010年3月14日三軒茶屋大会も欠場しているが、共にイベント興行であった為、連続出場記録にはカウントされていない。
12月26日後楽園大会(vs TAJIRI戦)でのインタビューで、当日の欠場理由をWWEの入団試験を受けていた為と話した。しかし、インタビュー当日になっても合否通知が来ていなかった為、本人は不合格と考えている。
2010年5月3日の後楽園大会よりワンピース水着型リングコスチュームを着用することが多くなったが、この時の対戦相手でもあったバンビの影響を受けたものである。
得意技 [編集]

ダブルアーム・スープレックス・ホールド
真琴のフェイバリットホールド。大きなブリッジで投げることができ、この技でシングル戦初勝利を成し遂げた。
真琴50kg!
その場飛び式のジャンピングボディプレス。50kgなのであまり効かない。さくらえみの「さくらえみ70kg!」のオマージュ技。3連発~5連発のパターンも存在する。
無気力キック
みなみ飛香の「はりきりキック」のオマージュ技。コーナーから飛ぶダイビング式や串刺し式もある。外国人に放つ場合は「ノー・スピリット・キック」と叫びながら蹴ることも。
無気力ハイ
右上段回し蹴り。
無気力印
りほの「ニコニコ印」のオマージュ技。
シャイニング・ウィザード
2007年5月3日の対メカマミー戦から使用。形は崩れ気味だが故に威力はある、メカマミーの顔面から赤い潤滑オイル(?)を流させた。プロレスLOVEポーズは欠かさずする。
側転プレス
ロンダード(側転)からのボディプレス。
サマーソルト・ドロップ
コーナーからダイビング・サマーソルト・ドロップを放つ事もある。
ムーンサルトプレス
ドラゴンスクリュー
三田さん固め
相手に背を向けてしゃがみこみながら、腕を引っ張ってエビ固めに移行する技。サムソンクラッチとは入り方が異なる。三田英津子が使用していたムーブで、真琴が使う場合はこう呼ばれる。
ブレイジング・チョップ
三田英津子の技を使用している。
ブレイジング・キック
二段蹴り式の無気力キック。三田英津子の了承を得て、技名にブレイジングを付けている。
ライジングスタースープレックスホールド
相手の両腕を自分の左脇下にはさみ、フィッシャーマンのように後方に反り投げる。三田英津子のフィニッシュホールドであり、本人から直接伝授された技。
W・W・ニー
側転式ダブルニードロップ
タイトル歴 [編集]

第2代インターナショナル・リボンタッグ王座(パートナーは三田英津子)
第3代ICEX60選手権
入場テーマ曲 [編集]

「聖少女領域」(ALI PROJECT)
無気力ファイター
その他 [編集]

DVD [編集]
ミラクルハンター(販売元:オルスタック・ピクチャーズ)
映画 [編集]
スリーカウント ※エキストラ出演
平成トンパチ野郎〜男はツラだよ〜(2009年)(マジカル/グラッソ)
テレビ出演 [編集]
筋肉美女-Muscle Venus(2008年4月-6月 テレビ埼玉)
マッスルビーナス(2008年9月-12月 同上)
コラム連載 [編集]
ナイガイモバイル☆バトル 「アイスリボン結び」(2007年2月-2009年2月)
他のアイスリボン選手と交代で執筆していた
ニッカンバトル 「バトル☆ビーナス」(2009年6月-2010年4月)
風香、桜花由美、杉山しずかと交代で執筆していた
インターネットラジオ [編集]
モテたいッ!!
外部リンク [編集]

アイスリボンプロジェクト(所属団体の公式サイト)
19時女子プロレス(MC・レフェリーなど運営スタッフとしても活動)
日刊真琴コール!(アイスリボン代表・さくらえみによる観察日記) ※終了
鬼神道プロダクション
電脳サブカルマガジンOGによるインタビュー  

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2011年01月03日

牧場みのり

牧場みのり(まきば みのり、1992年11月4日 - )は日本の女子プロレスラー。
身長154cm、体重58kg。千葉県出身。アイスリボン所属。
目次 [非表示]
1 人物
2 経歴
3 タイトル歴
4 必殺技
5 外部リンク
人物 [編集]

父親が柔道の指導者であり、その影響からアイスリボン入団前から柔道で体を鍛え、2007年には初段を獲得。
その後、さくらえみ主宰のアクション体操を通じてアイスリボンに入団。
恵まれた体格と各種柔道技を織り交ぜた試合展開で、アイスリボンきってのパワーファイターとして活躍。
中学卒業時、プロレス一本を通そうとして、高校への進学を考えた時期があったという(最終的にはさくらえみの説得に応じ、千葉県内の高校に進学)。
同い年で同じ柔道経験者でもある花月(石野由加莉)とは、センダイガールズプロレスリング参戦をキッカケに出会ったライバル関係。
幼少の頃からハードコアマッチが好きで、2010年5月10日のアイスリボンのメルマガで、同年アイスリボンが始めたハードコアリボンへの参入を表明している。
経歴 [編集]

2006年
9月9日、東京・千本桜ホール大会、vs真琴戦でデビュー。
2007年
9月21日市ヶ谷大会でNEOの勇気彩と対戦した事を機に意気投合。
翌週9月28日から勇気彩とのタッグを結成。
2008年
3月7日、勇気彩とのチームでさくらえみ・真琴組に勝利。タイトルホルダーの真琴からピンフォールを奪った事で、インターナショナル・リボンタッグ王座の次期挑戦権を獲得。
4月20日、センダイガールズプロレスリング主催「第一回じゃじゃ馬トーナメント」に出場(この大会出場が自身の他団体公式戦初参戦)。1回戦で水波綾を得意の柔道殺法であと一歩の所まで苦しめるも、最後は水波の回転肩固めでタップアウト負けを喫する。しかし、「最初はノーマークだった」と言うセンダイガールズ・里村明衣子代表からの評価は高く、センダイガールズへの継続参戦が決定。
5月16日、勇気彩とのチームでインターナショナル・リボンタッグ王座に挑戦したが、敗戦。
6月27日、センダイガールズZepp SENDAI大会(じゃじゃ馬トーナメント最終日)よりコスチュームを一新。
10月アイスリボン千本桜ホール大会、NEO田村欣子と対戦。以降、田村率いる「田村プロレス」との抗争に、アイスリボン正規軍の一員として参加。
10月26日、センダイガールズZepp SENDAI大会、センダイガールズ対エネミー若手選手の「5vs5勝ち抜きサバイバルマッチ」に、エネミーチームの先鋒として参加。先鋒戦で石野由加莉を倒し、他団体初勝利を挙げる。
12月21日、センダイガールズ主催デビル雅美引退記念1dayタッグトーナメントに真琴と共に出場。1回戦で十文字姉妹に敗れ敗退。
2009年
2月7日アイスリボン道場大会夜の部、高橋奈苗と対戦。敗れるも、試合後に「将来のエースになる」と宣言。
2月21日センダイガールズ主催「第二回じゃじゃ馬トーナメント」に出場したが、エスイのチョークスラムに沈み1回戦敗退。
4月4日~4月12日、高橋奈苗をパートナーに指名し、りほの負傷で空位となっていたインターナショナル・リボンタッグ王座の次期王者決定トーナメントに出場し優勝。自身初タイトルを獲得した。
4月19日センダイガールズ、タッグで里村明衣子と初対決(パートナーは里村が石野由加莉、牧場が及川千尋、勝者は石野・里村)。
5月5日NEO後楽園ホール大会、vs華名戦で、初めて後楽園での試合を経験(高橋奈苗の推薦によるもの、勝者は華名)。
7月5日NEOミッドサマー・タッグトーナメント'09出場(パートナーは勇気彩)。田村欣子・風香に敗れ1回戦敗退。
8月2日新木場1stRING風香祭10、高橋奈苗とのタッグ王者チームで出場。
8月23日アイスリボン後楽園大会、石野由加莉との4回目にしてホーム・アウェイを初めて入れ替えてのシングル戦で勝利。
10月4日、JWP後楽園大会、黒木千里のデビュー戦の対戦相手を務める。
12月、学業専念と膝の治療の為、一時休業。
2010年
4月24日、アイスリボン道場マッチで復帰
タイトル歴 [編集]

第5代インターナショナル・リボンタッグ王座(パートナーは高橋奈苗)
必殺技 [編集]

タックル
払い腰(タックルと交互に連続して行う場合も)
腕ひしぎ十字固め
ダイビングボディプレス
みのりスペシャル(ベースはコブラツイストだが、腕だけでなく首も同時に締め上げる)
みのリッチ(走り込んでのジャックナイフ固め)  

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2011年01月03日

星ハム子

星 ハム子(ほし ハムこ、1982年10月19日 - )は、日本の女子プロレスラー。北海道岩見沢市出身。身長150cm、体重60kg、血液型AB型。
アイスリボンに所属。元インターナショナル・リボンタッグ王座選手権者。
目次 [非表示]
1 所属
2 経歴・戦歴
3 人物
4 得意技
5 タイトル歴
6 入場テーマ曲
7 外部リンク
所属 [編集]

アイスリボン(2008年 - )
経歴・戦歴 [編集]

2008年
5月11日 東京・市ヶ谷アイスボックスにおいて、対しもうま和美戦でデビュー。
2010年
1月4日 アイスリボン新木場1stRING大会にて松本浩代をパートナーに迎え、インターナショナル・リボンタッグ王座に挑戦し勝利。初タイトルを獲得。
8月11日 北都プロレス岩見沢大会に凱旋出場。
10月10日 アイスリボン札幌テイセンホール大会「札幌リボン」にて、帯広さやかとの道産子タッグでさくらえみ・高橋奈苗のインターナショナル・リボンタッグ王座に挑戦するも敗退。
12月12日、JWP東京キネマ倶楽部大会にて、コマンド・ボリショイの持つICE×60王座に挑戦するも敗退。
人物 [編集]

堀田祐美子と高橋奈苗に憧れてプロレスラーを目指そうと、夫と子供を北海道に残して逆単身赴任でアイスリボンに入門。
市ヶ谷プロレス教室の同期であるしもうま和美・赤城はるなと「雑草ガールズ」を結成している。
アイスリボンのメルマガを担当している。
得意技 [編集]

ボディプレス
突っ張り
スモウラリアット
スパイン・バスター
タイトル歴 [編集]  

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2011年01月03日

藤本つかさ

藤本 つかさ(ふじもと つかさ、1983年7月30日 - )は、日本の女優、プロレスラー。宮城県仙台市出身。エクセリング所属、レスラーとしてはアイスリボン所属。
目次 [非表示]
1 人物
2 来歴
3 出演
3.1 映画
3.2 テレビ
3.3 インターネットドラマ
3.4 ラジオ
3.5 CM・キャンペーン
4 作品
4.1 イメージビデオ・DVD
5 出版
5.1 雑誌
6 タイトル歴
7 得意技
8 入場テーマ曲
9 外部リンク
人物 [編集]

愛称は「つっか」
新潟県中越地震の際には、学校が福祉関係ということもあり、2週間のボランティア活動に参加する。
2006年3月に東北福祉大学を卒業。大学では教育を専攻していた。2005年6月には出身中学校にて3週間の教育実習を受けた。中学・高校の社会科教員免許、養護学校教員免許、図書館司書免許などを取得している。
他団体の大会で豊田真奈美と試合して以降、豊田と絡む機会が多くなった上に、豊田本人からの高い評価を得たことで、「飛翔天女二世」と呼ばれることとなる。
北海道のローカルインディー団体「北都プロレス」に参戦した際、同団体の代表兼レフェリーのクレイン中條から「ピップ藤本」のニックネームを付けられた。
来歴 [編集]

2007年4月、芸能人女子フットサルチーム「南葛シューターズ」に入団。ポジションはゴレイロ(ゴールキーパー)で、背番号は「21」。
2009年夏公開の映画「スリーカウント」(監督:窪田将治)出演のため、プロレスラーとしてデビューすることになり、2008年、プロレス団体アイスリボンの練習に参加し、さくらえみ代表の指導を受ける。8月23日新木場1stRING大会・vs赤城はるな戦にてレスラーデビュー・初勝利を飾り、メインイベントの6人タッグマッチにも出場し勝利。その後もアイスリボンを中心に、NEO等他団体の試合にも定期的に参戦。その中で夏樹☆たいよう(パッション・レッド)・米山香織(JWP)等のNEO認定ハイスピード王座戦線に参入している。
2009年12月28日、日刊スポーツ制定日刊バトル大賞女子プロレス部門技能賞を受賞。
2010年1月4日、新春リボン新木場1stRING大会にてさくらえみを6秒で破り、第1回SUPER ICE-CUP優勝&第5代ICE×60王座の王者になる(過去には2008年11月15日新木場大会、vs星ハム子戦で、わずか18秒で勝利した経験がある)。
2010年12月11日、アイスリボンイサミレッスル武闘館大会にてしもうま和美の持つトライアングルリボン王座に挑戦し、勝利(もう一人は星ハム子)。第5代王者となるとともに、自らが創設したベルトを初めて巻いた。
2010年12月23日、アイスリボンイサミレッスル武闘館大会にて志田光と組み、みなみ飛香・つくし組、さくらえみ・高橋奈苗組を下してインターナショナル・リボンタッグ王者決定トーナメントに優勝。第14代王者となり、自身初の二冠を達成。また、りほ・松本都に続き3人目の団体内グランドスラム達成者となった。
2010年12月26日後楽園ホール大会、JWPコマンド・ボリショイの持つICE×60王座に挑戦し勝利、第11代王者になると共に、団体初の3冠王者となる。
出演 [編集]

映画 [編集]
エコエコアザラク - 共演:近野成美・伊藤裕子 他
春色のスープ - ヒトエ役- 共演:佐津川愛美・栩原楽人・鶴見辰吾・鈴木砂羽・美保純 他
スリーカウント - 牧村多加子役 - 共演:志田光・井上京子・田村欣子・さくらえみ 他
平成トンパチ野郎〜男はツラだよ〜(2009年)(マジカル/グラッソ)
テレビ [編集]
たけしの本当は怖い家庭の医学 再現VTR
SMAP×SMAP
QVCモデル
全力坂(2008年11月、テレビ朝日)
シアワセ結婚相談所
インターネットドラマ [編集]
6番目のプロフィール 共演:上原多香子他(2007/11・VISION FACTORY 月9 携帯ドラマ)
http://www.visionfactory.jp/keitaidrama/6banme/index.html
L-BOY 共演:矢吹春奈・川久保拓司他(2008/4・MOVEFULL 携帯ドラマ)- フレンディーめぐ 役
ラジオ [編集]
レインボータウンエフエム放送 ゲスト出演
バリュープリーズ パーソナリティー
ASIAN美少女 ゲスト出演
CM・キャンペーン [編集]
大江戸温泉物語(2006) - 大江戸シスターズ
イリアールクレンジングCM(2007年)
元気デザインイメージガール(2007年)
月島草市2007 司会
プロサッカークラブをつくろう! Online 秘書キャラクター
作品 [編集]

イメージビデオ・DVD [編集]
ビーナスシュート(2009年7月、NKプラニング)
出版 [編集]

雑誌 [編集]
週刊ヤングジャンプ 懸賞コーナー
ヤングガンガン
フットサルナビ
Bustier(ビスチェ)表紙、インタビュー
Poco'ce(ポコチェ)フリーペーパー
週刊プロレス
タイトル歴 [編集]

ICE×60王座(第5代、2010年1月4日新木場大会にて、さくらえみから奪取)
トライアングルリボン王座(第5代、2010年12月11日イサミレッスル武闘館大会にて、しもうま和美から奪取)
インターナショナル・リボンタッグ王座(第13代、2010年12月23日イサミレッスル武闘館大会にて、王者決定トーナメントに優勝して獲得。パートナーは志田光)
得意技 [編集]

ミサイルキック
ツカドーラ(カサドーラの入りから、後方へ回り込んでの回転エビ固め)
619
サッカーボールキック
PK
スカイラブハリケーン(『キャプテン翼』に登場するツープラトン技。仰向けになったパートナーの足を発射台にして高く飛び上がり攻撃する。タニー・マウスのキン肉マン技に対抗するため編み出された。)
ショーンキャプチャー(飛付き膝十字固め)
ウラカン・ラナ
ビーナスシュート(市ヶ谷の壁もしくはリングのコーナーを使った三角跳び式延髄斬り。市ヶ谷の会場に入ったときの思い付きで生まれた技(本人談))
ビーナススクリュー(横回転式ヨシタニック)
入場テーマ曲 [編集]  

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2011年01月03日

藤野恵美

藤野 恵美(ふじの めぐみ、1978年 - )は、日本の小説家。大阪府堺市出身。
大阪芸術大学文芸学科卒業。おもに児童文学作品を書いている。第20回福島正実記念SF童話賞佳作受賞、『ねこまた妖怪伝』で第2回ジュニア冒険小説大賞(岩崎書店)受賞。携帯電話で読むステーション文庫では、短編小説を書いている。
また、『七時間目の怪談授業』から始まるシリーズは、科学的懐疑主義の立場からオカルト現象を批判しているジュニア小説であり、擬似科学を批判している菊池誠らから、高く評価された。
作品リスト [編集]

岩崎書店
ねこまた妖怪伝 (2004年4月)
ねこまた妖怪伝2 (2007年8月)
ジャイブ
怪盗ファントム&ダークネスEX-GP
1(2004年9月、カラフル文庫/2008年3月 新装版)
2(2005年5月、カラフル文庫/2008年3月 新装版)
3(2006年2月、カラフル文庫/2008年3月 新装版)
4(2007年5月、カラフル文庫/2008年3月 新装版)
5-1 スペイン編 (2008年3月、カラフル文庫)
5-2 エジプト編 (2009年3月、カラフル文庫)
講談社青い鳥文庫
七時間目の怪談授業 (2005年3月)
七時間目の占い入門 (2006年3月)
七時間目のUFO研究 (2007年3月/2008年3月 青い鳥文庫SLシリーズ)
アリス館
ゲームの魔法 (2005年11月)
世界で一番のねこ (2008年9月)
学研
妖怪サーカス団がやってくる! (2006年4月)
妖怪サーカス団 キツネの姫と竜神さま (2007年11月)
光栄
金色のコルダ 君のためにできること (2006年7月/2008年1月、GAMECITY文庫)
金色のコルダ 君の音色が好きだから (2007年4月/2008年4月、GAMECITY文庫)
金色のコルダ2 君と僕のポリフォニー (2008年9月、GAMECITY文庫)
徳間書店
紫鳳伝 王殺しの刀 (2007年1月、トクマ・ノベルズ)
紫鳳伝2 神翼秘抄 (2008年5月、トクマ・ノベルズ)
その他
ハルさん (2007年2月、東京創元社 ミステリ・フロンティア)
高木くんのカレー研究
トイ・キッズ
妖怪絵師カズマ!
ステーション文庫
おいしい児童文学
おいしい児童文学2
O型隔離政策
オンナトモダチ
彼の指、彼女の瞳
恋に落ちる不思議
サッカー嫌い
自殺と復讐
社会人と結婚と恋心
将来の夢、殺し屋
猫と受験生
ひとりでカプチーノ
ファーストステップ(合作)
マーメイドの声
もう子供じゃない
モテるということ
リビドー女子高生
恋愛スイッチ
私の体について  

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2011年01月01日

キラー・カーン

キラー・カーン(Killer Khan、1947年3月6日 - )は、春日野部屋所属の元大相撲力士、元プロレスラー。新潟県西蒲原郡吉田町(現在の燕市)出身。本名は小澤 正志(おざわ まさし)。キラー・カンとも表記される。大相撲時代の四股名は越錦(えつにしき)で、最高位は幕下40枚目。
日本人離れした巨体の持ち主であり、プロレス転向後の全盛時はモンゴリアン・ギミックの大型ヒールとして国内外で活躍。1970年代末から1980年代にかけて、WWF(現・WWE)をはじめアメリカやカナダの主要テリトリーで実績を築くなど、国際的な成功を収めた数少ない日本人レスラーの一人である。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 主な戦歴
5 マネージャー
6 逸話
7 出演
8 脚注
9 外部リンク
来歴 [編集]

吉田中学校を卒業後、恵まれた体格を活かすべく春日野部屋に入門し、1963年3月場所にて小沢将志の名で初土俵を踏む。1967年7月場所より越錦の四股名を与えられたものの、伸び悩んで三段目上位から幕下下位を行き来し、1970年5月場所を最後に廃業した。また、大相撲時代は先代栃東(玉ノ井親方)の付き人を務めていた。
大相撲廃業後、1971年1月に日本プロレスに入門。吉村道明の付き人を務め、同年11月20日の桜田一男戦でデビューを果たす。その後、1973年4月に坂口征二、木村聖裔、大城大五郎らと共に新日本プロレスに移籍。1974年12月のカール・ゴッチ杯争奪リーグ戦では藤波辰巳と決勝を争った。
その巨体から、海外で通用する選手として期待をかけられ、1976年8月にヨーロッパへ遠征。12月にはアントニオ猪木のパキスタン遠征(アクラム・ペールワン戦)にも同行した。その後、1978年より本格的な海外武者修行としてメキシコに出発する。メキシコではテムヒン・エル・モンゴル(Temjin El Mongol)を名乗り、蒙古人レスラーに変身。1979年3月からはアメリカ本土に進出し、NWA圏のフロリダ地区(エディ・グラハム主宰のCWF)でキラー・カーン(Killer Khan)に改名。辮髪に髭をたくわえ、毛皮のベストとモンゴル帽子をコスチュームとしたモンゴリアン・スタイルを確立した(ただし、辮髪は本来は蒙古人ではなく満州族の髪型である)。このモンゴル人ギミックは、カール・ゴッチのアイデアによるものだという[1][2]。フロリダではパク・ソンやキング・カーティス・イヤウケアと組み、主力ヒールとしてダスティ・ローデスやジャック・ブリスコら大物選手と抗争[3]。1980年にはジョージア地区(ジム・バーネット主宰のGCW)に登場し、アブドーラ・ザ・ブッチャーやイワン・コロフ、プロフェッサー・タナカともタッグを組んだ[4]。
1980年末よりニューヨークのWWFに参戦。12月29日のマディソン・スクエア・ガーデン定期戦のメインイベントにおいて、ボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦した[5] 。その後もWWFではフレッド・ブラッシーをマネージャーに、ペドロ・モラレスのインターコンチネンタル王座にも挑戦するなどトップ・ヒールとして活躍[6]。アンドレ・ザ・ジャイアントとのスーパーヘビー級抗争も開始し、1981年5月2日、ニューヨーク州ロチェスターにおいてアンドレの右足をニー・ドロップで骨折させて悪名を轟かせた。もちろん、カーンが故意にアンドレに怪我を負わせたわけではなく、実際にはアンドレが自身の過失で試合中に自分の足を痛めてしまい、それに気付いたカーンが機転をきかせトップロープからニー・ドロップを放ったというのが真相である。後日、カーンは通訳を連れてアンドレの入院先の病院を訪れ、この試合の件について謝罪。しかし、アンドレは寛大に笑い飛ばし、「気にするな。あれはアクシデント。君の機転が無かったら試合が台無しになっていたところだった」と逆に励ましの言葉をかけたという。さらにアンドレは「それよりも、あの試合は『キラー・カーンがアンドレ・ザ・ジャイアントの足をニー・ドロップで骨折させた』ということにしよう。俺が退院したら、君との試合は盛り上がること間違いなしだ」と言い、格好のストーリーラインまで提案している。このアングルにより、キラー・カーンのヒール人気は急上昇。彼を瞬く間に世界的なメインイベンターへ昇格させることになった。
翌年、「アンドレの足を折った男」の触れ込みで凱旋帰国。1982年4月1日に蔵前国技館で行われたMSGシリーズの優勝戦では、右膝負傷(実際には糖尿病の悪化とされる)で棄権したアントニオ猪木の代打としてアンドレと一騎打ちを行い、敗れはしたもののファンの「オザワ・コール」に支えられ生涯屈指の名勝負を演じた。年末のMSGタッグ・リーグ戦ではタイガー戸口と組んで準優勝を果たした。その後、1983年より戸口と共に長州力の維新軍団に加入し、新日本プロレスの反体制勢力にまわる。この間、1982年から1984年にかけては海外にも精力的に遠征しており、アンドレとの遺恨試合はミッドサウス地区のMSWA(ビル・ワット主宰)でも実現。NWAミッドアトランティック地区やカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリング(スチュ・ハート主宰)なども転戦し、日本と北米を股にかけて活躍した。
1985年、長州らが設立したジャパンプロレスに参画し、全日本プロレスのリングに登場。同年9月には谷津嘉章と組んでジャンボ鶴田&天龍源一郎のインターナショナル・タッグ王座に挑戦した。1986年5月にジャパンプロレス勢に造反し、ラッシャー木村、阿修羅・原、スーパー・ストロング・マシーンらと結託。このときに日本テレビの若林健治が発した「恩知らずのキラー・カーン」の台詞が強いインパクトを残した。並行してアメリカにも遠征し、テキサス州ダラスではテリー・ゴディ&マイケル・ヘイズのファビュラス・フリーバーズの用心棒となり、ケビン・フォン・エリックやケリー・フォン・エリックと抗争。11月の世界最強タッグ決定リーグ戦にはゴディとのコンビで出場している。
1987年4月に全日本を去り、WWFと再契約。ミスター・フジをマネージャーにWWF世界王者ハルク・ホーガンと短期抗争を展開した他、ランディ・サベージやバンバン・ビガロらと対戦した[7]。また、この2回目のWWF参戦時にはザ・グレート・カブキのような毒霧(アジアン・ミスト)を使用することがあった。同年11月末、ニュージャージー州で行われたジョージ・スティール戦を最後に引退した[8]。
プロレスラー引退後もキラー・カンを名乗り、東京都新宿区中井に「スナック カンちゃん」を開店。現在は西新宿五丁目に店を移し、ちゃんこ料理を主とした「ちゃんこ居酒屋 カンちゃん」を経営している。巨躯にもかかわらず店内ではホールスタッフとして店主自ら接客し、細やかな気配りに定評がある。2005年には『ふるさと真っ赤か』でCDデビュー。居酒屋経営のかたわらバラエティ番組など各種メディアで活躍し、『ロイ白川 心の演歌』(とちぎテレビ)にセミレギュラー出演している。
スナック時代の常連客には尾崎豊がおり、ある時小腹が空いた尾崎にカーンが「こんなんでよかったら」と出したまかないカレーを尾崎がいたく気に入って、カレーを目的に月に数度来店していた。現在の店「カンちゃん」でもカレ-は名物として人気を得ている。
得意技 [編集]

ダイビング・ニー・ドロップ
奇声をあげながら跳び下りる様からアルバトロス殺法と呼ばれた
モンゴリアン・チョップ
同じく奇声を上げながら両手により首元を狙うチョップ攻撃。現在では天山広吉などに継承されている。
クロー・ホールド
ペンデュラム・バックブリーカー
カナディアン・バックブリーカー
エルボー・ドロップ
ギロチン・ドロップ
獲得タイトル [編集]

CWF(フロリダ)
NWA USタッグ王座(フロリダ版):1回(w / パク・ソン) [9]
1979年3月31日にトーナメント決勝でニュー・ブロンド・ボンバーズ(ラリー・レイザム&ウェイン・ファリス)を破って獲得。
MSWA
ミッドサウス・ルイジアナ・ヘビー級王座:1回 [10]
1982年7月6日にトーナメント決勝でジャンクヤード・ドッグを破って獲得。
ミッドサウス・ミシシッピ・ヘビー級王座:1回 [11]
1982年8月27日にミスター・オリンピア(ジェリー・スタッブス)から奪取。
スタンピード・レスリング(カルガリー)
スタンピード北米ヘビー級王座:1回 [12]
1984年1月20日にアーチー・ゴルディーから奪取。
WCCW(ダラス)
WCCW TV王座:1回 [13]
1984年5月7日、負傷した前王者ケリー・キニスキーの後任として王座を継承。
主な戦歴 [編集]

大相撲時代
生涯成績:146勝148敗7休(44場所)
優勝:各段いずれもなし
プロレス時代
第5回MSGシリーズ優勝(1982年)
第3回MSGタッグ・リーグ戦準優勝(1982年)
マネージャー [編集]

タイガー服部(CWF)
ソニー・キング(CWF)
ゴージャス・ジョージ・ジュニア(GCW)
グレート・メフィスト(GCW)
フレッド・ブラッシー(WWF)※ビンス・マクマホン・シニア期
スカンドル・アクバ(MSWA、WCCW)
ゲーリー・ハート(WCCW)
将軍KYワカマツ(スタンピード・レスリング)
ミスター・フジ(WWF)※ビンス・マクマホン・ジュニア期
逸話 [編集]

吉田中学校では長身を活かしバスケットボールで活躍[8]。
新日初期の若手選手の登竜門「カール・ゴッチ杯」の第1回大会で決勝を争った藤波辰爾とは当時から仲がよく、今でも親交が深い。
日本のプロレス界で1・2を争う喉自慢であり、ジャイアント馬場も彼の歌声を愛した。現在も月に2,3回老人ホームを訪問して三橋美智也の唄などを披露している[2]。
そのジャイアント馬場とは同じ新潟県出身者。団体は違えど、馬場はカーンのことをよく気にかけていたという。馬場との巨人タッグを結成する計画もあった。
『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』のプロレスクイズにも出演し、ダチョウ倶楽部と絡んだことがある(DVDの特典映像である歴代優勝者座談会の中でビートたけしからMVPの称号を与えられた)。
スタン・ハンセンが全日本プロレスに電撃移籍した報復として、新日本プロレスはテッド・デビアスの引き抜きを画策。その際交渉にあたったのがキラー・カーンだった。交渉は成功し内諾を得ていたが、契約直前に両団体間で紳士協定が結ばれたため白紙撤回となる。
中井にあった「スナックカンちゃん」は、シンガーソングライターの尾崎豊が常連客だったことで知られる。尾崎はカレーライスが絶品でよく注文していたとのこと。このエピソードは今でも『あの人は今!?』(NTV)や尾崎豊の特集企画などで語られる。現在の歌舞伎町の店舗にも尾崎の色紙が飾られており、生前の尾崎が好んだ特製カレーライスが看板メニューとなっている。
ニューヨークにいた頃の給料は、当時のレート換算で週給にして600万円。まさしく全米マット界でも正真正銘のトップレスラーだったが、当時のニューヨークではエイズが蔓延していたため、ゲイのレスラーと試合をするのに気が進まず、帰国した。[要出典]
レスラーの食事量の多さは有名だが、小沢は特に多かった。カルガリー時代に、ミスター・ヒトに電子炊飯器を借りて米一升を炊き、鶏3羽分の肉と卵12個ほどを使って巨大な親子丼をつくったことがあり、ヒトが「それ誰かと食うのか?」と聞いたところ、「いいえ、僕の昼飯です」と1人で1時間ほどかけて食べていたという。[要出典]
出演 [編集]

プロレスラー引退後、俳優・歌手としてデビュー。
ベルサイユのトラック姐ちゃん 第3話「ベルトラ姐ちゃん大進撃!」(1976年5月14日) - 遠藤幸吉(特別出演)の子分のヤクザ役で出演(小沢正志名義。台詞は無し)
隠密・奥の細道(1988年10月 - 1989年3月)
「火刑都市」(1989年 日本テレビ 火曜サスペンス劇場)
ふぞろいの林檎たち(1991年)
ハロー張りネズミ(1991年)
エバラ家の人々(1991年)
必殺スペシャル・春 世にも不思議な大仕事 主水と秀 香港・マカオで大あばれ(1991年)
極道ステーキ・シリーズ(1991年 - 1992年)
Zの回路 復讐の裏ゴト師(1996年)
NINE-ONE II 魔獣都市・シリーズ(1996年)
MUSASHI(1996年)
逃亡者 おりん(2006年)
ライオン丸G(2006年)
巣鴨バラエティ横丁 第2話(2007年)  

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2011年01月01日

├─≠ョ─ヵラスと小杉俊二

├─≠ョ─ヵラス 西岡剛
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 当初はヘアスタイルはスポーツ刈りであったが、腰痛での欠場から復帰し、ヤングライオン杯参加のタイミングで、「ゲン直し」としてスキンヘッドにする。  

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2011年01月01日

├─≠ョ─ヵラスと高阪剛

├─≠ョ─ヵラス TKシザーズ
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 指導者としても名高く、モーリス・スミス、フランク・シャムロック、吉田秀彦(学生柔道時代からの友人)などを指導した  

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2010年12月31日

栗栖正伸

栗栖 正伸(くりす まさのぶ、1946年11月15日 - )は、日本の男性プロレスラー。鹿児島県肝属郡出身。身長175cm、体重100kg。
目次 [非表示]
1 略歴
2 その他
3 得意技
4 リングネーム
略歴 [編集]

国士舘大学を卒業後、まず単身アメリカに渡り、ロサンゼルスを中心にレスラー修行を積む。1972年4月に新日本プロレス入門。1972年9月26日のリトル浜田(後のグラン浜田)戦でデビューするが、約7年に渡り前座クラスのレスラーとして長い下積み期間を過ごす。ドン荒川の後にアントニオ猪木の付き人をしていたのもこの時期である。1979年、先にメキシコ修行を行っていたグラン浜田と入れ替わるようにメキシコに遠征、マサノブ・クルスのリングネームでUWAのトップルードとして活躍を見せる、またこの時期に、後に新日本に参戦するKuroneko(後のブラック・キャット)とも知り合っている。
1984年、長州力ら維新軍団を中心に結成されたジャパンプロレスに参加。ジャパンプロレスの一員として全日本プロレスに参戦。1987年に長州の離脱を契機にジャパンプロレスが分解すると、谷津嘉章、永源遙らと共に全日本プロレスに入団する。
1988年に全日本プロレスで最初の引退。
1989年9月、大阪市平野区に「栗栖正伸トレーニングジム」を設立(後に廃業)。後進の育成に力を入れる。同年大仁田厚が立ち上げたFMWに参戦しレスラー復帰。この頃よりイス攻撃を中心とする独自のスタイルを前面に出し、複数のインディー団体に参戦、人気を博す。その後天龍源一郎の立ち上げたWARや、古巣である新日本に参戦。特に新日本はインディーに対して攻撃的な気質で知られるが、その中にあっても座席部分が外れてしまうほど相手の頭を激しくぶち抜くイス攻撃を繰り出し、新日本側の選手とケンカマッチ的な激しい試合になることもあった(橋本真也とのケンカマッチは栗栖の名勝負に数えられる)。またシングルのみならず、キム・ドクとのタッグでも興行を盛り上げている。
2000年代に入ってもFSRやWAP、ZERO-ONEなどの団体にスポット的な参加が中心であったが、2005年からはビッグマウス・ラウドに参戦している。
2008年12月18日、「昭和プロレス 第2弾興行」後楽園ホールでメモリアルタッグマッチ(20分1本勝負)に出場した。大仁田厚とタッグを組み、グラン浜田、鶴見五郎ペアに敗退した。
その他 [編集]

栗栖正伸トレーニングジム出身のレスラーとして男性では金本浩二、雷陣明、奥村茂雄、女子では中西百重らが知られる。また菊タローも本名経歴等非公開であるが、本人のブログで「(栗栖ジムは)プロレスラーになる基礎になった」と発言している。また一時期、ジム生をリングに上げて地元密着型興行を行っていた時期もある。また、山田花子はJWP女子プロレス入門前に栗栖ジムにおり、トレーニング風景がテレビ番組で紹介されたことがある。
若手時代の栗栖とドン荒川は、出身地、体格、経歴(レスリング経験)が似ていたことから激しくいがみ合い、両者のシングルマッチは『鹿児島選手権』と称されるほど激しいものとなった。現在も共にビッグマウス・ラウドに参戦するなど、縁は続いている。
得意技 [編集]

栗栖スペシャル
栗栖のフィニッシュ・ホールドである関節技。座った状態の相手に対し、相手肩部に座るように後方より体を乗せ(肩車の状態)相手頭部を腿で挟み込む。その状態より相手両足首を掴んで引き上げ、相手の体を折りたたむ技。
イス攻撃
栗栖がヒールでブレイクした際の代表的な攻撃。イス攻撃自体は古典的な反則技であり、栗栖以外の選手も用いるため技術的に特筆するものではないが、栗栖は殆どの攻撃にイスを使いつつ試合を組み立てることが出来る稀有な使い手であることから「イス大王」の異名を取る。しかし、タッグを組んでいたアニマル浜口があまりにもイスに頼るので仲間割れに至りマイクを使い「栗栖! お前のやり方嫌だよ。 俺は(お前と組むのは)もう 嫌だぞ!!嫌だー!!!」と激怒した。
目立つ攻撃のほとんどにイスを使い、FMWの第1回総合格闘技オープントーナメント(1990年)を制した。これに影響されたのか、大仁田を筆頭にインディーでは椅子攻撃が連日のように行われている。  

Posted by tokyokarasu2010 at 00:19Comments(0)