2011年01月06日
グレート・東郷
グレート・東郷(Great Togo、本名:ジョージ岡村(George Okamura)1911年10月11日 - 1973年12月17日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。オレゴン州フートリバー出身の日系アメリカ人。日本名:岡村一夫(おかむら かずお)。
生年・出自については諸説あり、父は日本人、母は中国人のそれぞれアメリカ移民であったという説、両親とも日本人で熊本あるいは沖縄から移民したという説、朝鮮半島出身説などが語られていて、真相は不明である(この経緯は下記関連書参照)。
リングネームの変遷はブル・伊藤→ジョージ・岡村→グレート・トージョー(東條)→グレート・東郷。
目次 [非表示]
1 来歴
2 逸話
3 関連書籍
4 外部リンク
来歴 [編集]
第二次世界大戦後のアメリカのプロレス界で頭角を現した。その後来日し、日本プロレス、国際プロレスなどのリングにも上がった。
特に1962年に行われた「噛みつき魔」フレッド・ブラッシーとの一戦は壮絶で、東郷の額から激しく滴り落ちる流血をテレビで見た老人数名がショック死して社会問題になったこともある(自身は後年「血はリングに咲く花」と表現している)。
アメリカのリングでは終戦直後の反日感情を利用してヒールに徹した。米国で軍国主義の頭目と見られていた東條英機の苗字にあやかったリングネーム「グレート・トージョー」を当初名乗ったが、「東條」の名字をそのまま使うのはあまりにも刺激が強すぎるという判断から(実際に米国の巡業先の会場にて観客から暴行を受けたことを日刊スポーツの記者に語っている。)著名な日本人軍人である東郷平八郎にあやかったリングネーム「グレート・東郷」に変更し、晩年までこのリングネームを用いた。リングコスチュームは股引スタイルで、窮地に陥ったときの卑屈な懇願のあとの「股間への蹴り」や塩による「目潰し攻撃」などの反則技を売り物にした(卑屈に許しを乞うた後の反則から当時の観客は真珠湾攻撃を連想した)。
卑劣な反則技や、アメリカ人にとっては不気味なアルカイックスマイル、東洋風のコスチューム、塩をまく「儀式」など東郷独自のレスリングスタイルはその後アメリカにおける日本人及び日系人ヒールレスラーの雛形となり、ザ・グレート・カブキ、グレート・ムタやケンゾー・スズキらに受け継がれていった。
全盛時代の東郷は試合のたびにファンに襲われ、時には銃剣で田楽刺しの刑にされそうになったこともあったという。また、日系人協会から抗議されたこともあった。
日本のリングでは、頭突き攻撃や空手チョップなどの技を使い、根性溢れるベビーフェイスとして活躍した。ブッカーとしても手腕を振るい、グレート・アントニオなどの大物・怪物レスラーを来日させた。アントニオ来日の際は彼の首に鎖をつないで先導するなどマネージャー役も演じている。
日本プロレスのアメリカにおける窓口として、様々なレスラーを斡旋するが、金銭トラブルから力道山死後の日本プロレスから決別される。その報復として、アメリカ遠征中だったジャイアント馬場に高額の契約金を保証してアメリカに定着するように説得するが、失敗に終った。
日本での復活を策して国際プロレスにも協力し、外国人レスラーを斡旋したほかTBS放送開始初戦のルー・テーズ対グレート草津戦において、草津側のセコンドにもついている。しかし軋轢も多く、当初エースとして迎えられる予定だったヒロ・マツダは東郷の参加を嫌い早々に離脱。また日本のプロレス界を乗っ取ろうとしていると思われ、ユセフ・トルコから暴行を受けた(トルコ側は暴行を否定している)。最終的には国際プロレスとも金銭トラブルで決別している。
1973年12月17日、胃癌の手術の経過が思わしくなく、ロサンゼルスにて死去。62歳没。
逸話 [編集]
永源遙がアメリカ修行時代に、グレート・トーゴーのリングネームを名乗っていたことがある。
金銭にまつわるエピソードが多く見られた。ジャイアント馬場がアメリカ武者修行時代、東郷から受けていた注意として、「車の灰皿を使うな」(車を転売する際、一箇所でも痛んでいると安く買い叩かれるため)、「練習すると腹が減るから夕方まで寝ていろ」(食事代をケチるため)等、後に馬場が自著で語っている。力道山の死後に日本プロレスと決別したのも高額なブッキング料が一因であり、TBSプロレス(国際プロレス)のブッカーに就くと予想通り法外なブッキング料をTBSに要求し決裂した。ただし、「高額なブッキング料に見合うだけの豪華メンバーは確かに呼んでいた」と評価する声もあり、現に東郷と決別した後の日本プロレスの外人選手の質ははっきり低下した。
全米で大ヒールとして鳴らしていた頃、1952年には初渡米した空手の大山倍達を「マス東郷」、柔道の遠藤幸吉を「コウ東郷」と名乗らせ、兄弟ギミックの東郷ブラザーズを結成し全米をサーキット。その後、ハワイ出身の日系二世ハロルド坂田(日本名は敏行)が弟の「トシ東郷」となり、東郷ブラザーズを再編したこともあった(東郷本人は日本名の一夫から「カズ東郷」と名乗っていた)。このコンビで1955年、NWA世界タッグ王座を獲得している(日系レスラーでは初)。
生年・出自については諸説あり、父は日本人、母は中国人のそれぞれアメリカ移民であったという説、両親とも日本人で熊本あるいは沖縄から移民したという説、朝鮮半島出身説などが語られていて、真相は不明である(この経緯は下記関連書参照)。
リングネームの変遷はブル・伊藤→ジョージ・岡村→グレート・トージョー(東條)→グレート・東郷。
目次 [非表示]
1 来歴
2 逸話
3 関連書籍
4 外部リンク
来歴 [編集]
第二次世界大戦後のアメリカのプロレス界で頭角を現した。その後来日し、日本プロレス、国際プロレスなどのリングにも上がった。
特に1962年に行われた「噛みつき魔」フレッド・ブラッシーとの一戦は壮絶で、東郷の額から激しく滴り落ちる流血をテレビで見た老人数名がショック死して社会問題になったこともある(自身は後年「血はリングに咲く花」と表現している)。
アメリカのリングでは終戦直後の反日感情を利用してヒールに徹した。米国で軍国主義の頭目と見られていた東條英機の苗字にあやかったリングネーム「グレート・トージョー」を当初名乗ったが、「東條」の名字をそのまま使うのはあまりにも刺激が強すぎるという判断から(実際に米国の巡業先の会場にて観客から暴行を受けたことを日刊スポーツの記者に語っている。)著名な日本人軍人である東郷平八郎にあやかったリングネーム「グレート・東郷」に変更し、晩年までこのリングネームを用いた。リングコスチュームは股引スタイルで、窮地に陥ったときの卑屈な懇願のあとの「股間への蹴り」や塩による「目潰し攻撃」などの反則技を売り物にした(卑屈に許しを乞うた後の反則から当時の観客は真珠湾攻撃を連想した)。
卑劣な反則技や、アメリカ人にとっては不気味なアルカイックスマイル、東洋風のコスチューム、塩をまく「儀式」など東郷独自のレスリングスタイルはその後アメリカにおける日本人及び日系人ヒールレスラーの雛形となり、ザ・グレート・カブキ、グレート・ムタやケンゾー・スズキらに受け継がれていった。
全盛時代の東郷は試合のたびにファンに襲われ、時には銃剣で田楽刺しの刑にされそうになったこともあったという。また、日系人協会から抗議されたこともあった。
日本のリングでは、頭突き攻撃や空手チョップなどの技を使い、根性溢れるベビーフェイスとして活躍した。ブッカーとしても手腕を振るい、グレート・アントニオなどの大物・怪物レスラーを来日させた。アントニオ来日の際は彼の首に鎖をつないで先導するなどマネージャー役も演じている。
日本プロレスのアメリカにおける窓口として、様々なレスラーを斡旋するが、金銭トラブルから力道山死後の日本プロレスから決別される。その報復として、アメリカ遠征中だったジャイアント馬場に高額の契約金を保証してアメリカに定着するように説得するが、失敗に終った。
日本での復活を策して国際プロレスにも協力し、外国人レスラーを斡旋したほかTBS放送開始初戦のルー・テーズ対グレート草津戦において、草津側のセコンドにもついている。しかし軋轢も多く、当初エースとして迎えられる予定だったヒロ・マツダは東郷の参加を嫌い早々に離脱。また日本のプロレス界を乗っ取ろうとしていると思われ、ユセフ・トルコから暴行を受けた(トルコ側は暴行を否定している)。最終的には国際プロレスとも金銭トラブルで決別している。
1973年12月17日、胃癌の手術の経過が思わしくなく、ロサンゼルスにて死去。62歳没。
逸話 [編集]
永源遙がアメリカ修行時代に、グレート・トーゴーのリングネームを名乗っていたことがある。
金銭にまつわるエピソードが多く見られた。ジャイアント馬場がアメリカ武者修行時代、東郷から受けていた注意として、「車の灰皿を使うな」(車を転売する際、一箇所でも痛んでいると安く買い叩かれるため)、「練習すると腹が減るから夕方まで寝ていろ」(食事代をケチるため)等、後に馬場が自著で語っている。力道山の死後に日本プロレスと決別したのも高額なブッキング料が一因であり、TBSプロレス(国際プロレス)のブッカーに就くと予想通り法外なブッキング料をTBSに要求し決裂した。ただし、「高額なブッキング料に見合うだけの豪華メンバーは確かに呼んでいた」と評価する声もあり、現に東郷と決別した後の日本プロレスの外人選手の質ははっきり低下した。
全米で大ヒールとして鳴らしていた頃、1952年には初渡米した空手の大山倍達を「マス東郷」、柔道の遠藤幸吉を「コウ東郷」と名乗らせ、兄弟ギミックの東郷ブラザーズを結成し全米をサーキット。その後、ハワイ出身の日系二世ハロルド坂田(日本名は敏行)が弟の「トシ東郷」となり、東郷ブラザーズを再編したこともあった(東郷本人は日本名の一夫から「カズ東郷」と名乗っていた)。このコンビで1955年、NWA世界タッグ王座を獲得している(日系レスラーでは初)。
Posted by tokyokarasu2010 at 19:34│Comments(0)
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
|
|
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。 |