2011年01月08日
ダニー・ケイ
ダニー・ケイ(Danny Kaye、1913年1月18日 - 1987年3月3日)は、アメリカ合衆国の俳優、歌手、コメディアン。本名デーヴィッド・ダニエル・カミンスキー(David Daniel Kaminsky)。
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1 略歴
1.1 生い立ち
1.2 映画界入り
1.3 野球好き
1.4 ユニセフ親善大使
1.5 指揮者
1.6 死去
2 主な出演作品
3 関連項目
4 外部リンク
略歴 [編集]
生い立ち [編集]
ニューヨーク州のブルックリンにて、ウクライナからのユダヤ系移民の親の元に生まれる。幼い頃から歌とおしゃべりが好きで、高校中退後劇団に入り下積みを経験し、1939年の『The Straw Hat Revue』でブロードウェイデビューを果たす。
映画界入り [編集]
その後、1941年のブロードウェイ・ミュージカル『レイディ・イン・ザ・ダーク(Lady in the Dark)』に出演し、さらにわずか39秒で50人のロシア人作曲家を早口で暗唱する『チャイコフスキー(Tchaikovsky and Other Russians)』という曲で大絶賛を浴びた。
さらに、彼の才能に注目した映画製作者サミュエル・ゴールドウィンの誘いにより映画界入りを果たし、1944年に『ダニー・ケイの新兵さん』で映画デビューを飾る。 以降、『ダニー・ケイの天国と地獄』や『虹を掴む男』、『ホワイト・クリスマス』、『五つの銅貨』等、数々の映画に出演。独特の早口で歌う様やコミカルな演技で人気を博した。
野球好き [編集]
一時期、マリナーズの共同オーナーであった。
ユニセフ親善大使 [編集]
1954年には国連のユニセフに参加、以後亡くなるまで親善大使として尽力する。その活動と芸達者ぶりが評価され、同年のアカデミー賞では特別賞を受賞した。
その後、活躍の舞台を映画からテレビやブロードウェイ・ミュージカルに移行。1963年にスタートしたテレビのバラエティー『ダニー・ケイ・ショー』ではその年のエミー賞を受賞。またユニセフ親善大使としては世界各国のチャリティ・ショーのステージに立ち続けた。
また、度々お忍びで来日しては日本の福祉施設を回っていたが、それを表には出さず、マスコミに見つかっても「日本のお寺をじっくり見たかったんです」とごまかしていたという。この姿勢に感銘を受けたのが坂本九で、彼も地方公演の合間を縫って色々な福祉施設を訪れることを心がけていた。
指揮者 [編集]
ダニーは楽譜が読めなかったが、オーケストラの指揮者としても活動し、ヨーロッパで1973年にストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団に客演した際のライヴ録音(チャイコフスキーのくるみ割り人形組曲-現在BISレーベルのストックホルム・フィル75周年記念ボックスに収録。)が残されている。
本国アメリカでは、1981年9月に行なったニューヨーク・フィルハーモニックとの演奏会が語り継がれている。同楽団の常任指揮者であったズービン・メータの物真似をしたり、ハエ叩きを持ってリムスキー=コルサコフの『熊蜂の飛行』を指揮したりと、得意のコミカルな演技で聴衆を楽しませた(尚、この演奏会の模様は『ダニー・ケイとニューヨーク・フィルの夕べ』というタイトルでビデオやレーザーディスクが発売されていたが、現在は廃盤であり、中古品が高値で取り引きされている)。
死去 [編集]
1981年のアカデミー賞では、長年のユニセフの活動に対してジーン・ハーショルト友愛賞を授与された。1987年、ロサンゼルスにて心臓発作で死去。74歳。ニューヨーク州ウエストチェスター郡ヴァルハラにあるケンシコ墓地(Kensico Cemetery)に埋葬された。
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1 略歴
1.1 生い立ち
1.2 映画界入り
1.3 野球好き
1.4 ユニセフ親善大使
1.5 指揮者
1.6 死去
2 主な出演作品
3 関連項目
4 外部リンク
略歴 [編集]
生い立ち [編集]
ニューヨーク州のブルックリンにて、ウクライナからのユダヤ系移民の親の元に生まれる。幼い頃から歌とおしゃべりが好きで、高校中退後劇団に入り下積みを経験し、1939年の『The Straw Hat Revue』でブロードウェイデビューを果たす。
映画界入り [編集]
その後、1941年のブロードウェイ・ミュージカル『レイディ・イン・ザ・ダーク(Lady in the Dark)』に出演し、さらにわずか39秒で50人のロシア人作曲家を早口で暗唱する『チャイコフスキー(Tchaikovsky and Other Russians)』という曲で大絶賛を浴びた。
さらに、彼の才能に注目した映画製作者サミュエル・ゴールドウィンの誘いにより映画界入りを果たし、1944年に『ダニー・ケイの新兵さん』で映画デビューを飾る。 以降、『ダニー・ケイの天国と地獄』や『虹を掴む男』、『ホワイト・クリスマス』、『五つの銅貨』等、数々の映画に出演。独特の早口で歌う様やコミカルな演技で人気を博した。
野球好き [編集]
一時期、マリナーズの共同オーナーであった。
ユニセフ親善大使 [編集]
1954年には国連のユニセフに参加、以後亡くなるまで親善大使として尽力する。その活動と芸達者ぶりが評価され、同年のアカデミー賞では特別賞を受賞した。
その後、活躍の舞台を映画からテレビやブロードウェイ・ミュージカルに移行。1963年にスタートしたテレビのバラエティー『ダニー・ケイ・ショー』ではその年のエミー賞を受賞。またユニセフ親善大使としては世界各国のチャリティ・ショーのステージに立ち続けた。
また、度々お忍びで来日しては日本の福祉施設を回っていたが、それを表には出さず、マスコミに見つかっても「日本のお寺をじっくり見たかったんです」とごまかしていたという。この姿勢に感銘を受けたのが坂本九で、彼も地方公演の合間を縫って色々な福祉施設を訪れることを心がけていた。
指揮者 [編集]
ダニーは楽譜が読めなかったが、オーケストラの指揮者としても活動し、ヨーロッパで1973年にストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団に客演した際のライヴ録音(チャイコフスキーのくるみ割り人形組曲-現在BISレーベルのストックホルム・フィル75周年記念ボックスに収録。)が残されている。
本国アメリカでは、1981年9月に行なったニューヨーク・フィルハーモニックとの演奏会が語り継がれている。同楽団の常任指揮者であったズービン・メータの物真似をしたり、ハエ叩きを持ってリムスキー=コルサコフの『熊蜂の飛行』を指揮したりと、得意のコミカルな演技で聴衆を楽しませた(尚、この演奏会の模様は『ダニー・ケイとニューヨーク・フィルの夕べ』というタイトルでビデオやレーザーディスクが発売されていたが、現在は廃盤であり、中古品が高値で取り引きされている)。
死去 [編集]
1981年のアカデミー賞では、長年のユニセフの活動に対してジーン・ハーショルト友愛賞を授与された。1987年、ロサンゼルスにて心臓発作で死去。74歳。ニューヨーク州ウエストチェスター郡ヴァルハラにあるケンシコ墓地(Kensico Cemetery)に埋葬された。
Posted by tokyokarasu2010 at 17:59│Comments(0)
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