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2011年01月01日

キラー・カーン

キラー・カーン(Killer Khan、1947年3月6日 - )は、春日野部屋所属の元大相撲力士、元プロレスラー。新潟県西蒲原郡吉田町(現在の燕市)出身。本名は小澤 正志(おざわ まさし)。キラー・カンとも表記される。大相撲時代の四股名は越錦(えつにしき)で、最高位は幕下40枚目。
日本人離れした巨体の持ち主であり、プロレス転向後の全盛時はモンゴリアン・ギミックの大型ヒールとして国内外で活躍。1970年代末から1980年代にかけて、WWF(現・WWE)をはじめアメリカやカナダの主要テリトリーで実績を築くなど、国際的な成功を収めた数少ない日本人レスラーの一人である。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 主な戦歴
5 マネージャー
6 逸話
7 出演
8 脚注
9 外部リンク
来歴 [編集]

吉田中学校を卒業後、恵まれた体格を活かすべく春日野部屋に入門し、1963年3月場所にて小沢将志の名で初土俵を踏む。1967年7月場所より越錦の四股名を与えられたものの、伸び悩んで三段目上位から幕下下位を行き来し、1970年5月場所を最後に廃業した。また、大相撲時代は先代栃東(玉ノ井親方)の付き人を務めていた。
大相撲廃業後、1971年1月に日本プロレスに入門。吉村道明の付き人を務め、同年11月20日の桜田一男戦でデビューを果たす。その後、1973年4月に坂口征二、木村聖裔、大城大五郎らと共に新日本プロレスに移籍。1974年12月のカール・ゴッチ杯争奪リーグ戦では藤波辰巳と決勝を争った。
その巨体から、海外で通用する選手として期待をかけられ、1976年8月にヨーロッパへ遠征。12月にはアントニオ猪木のパキスタン遠征(アクラム・ペールワン戦)にも同行した。その後、1978年より本格的な海外武者修行としてメキシコに出発する。メキシコではテムヒン・エル・モンゴル(Temjin El Mongol)を名乗り、蒙古人レスラーに変身。1979年3月からはアメリカ本土に進出し、NWA圏のフロリダ地区(エディ・グラハム主宰のCWF)でキラー・カーン(Killer Khan)に改名。辮髪に髭をたくわえ、毛皮のベストとモンゴル帽子をコスチュームとしたモンゴリアン・スタイルを確立した(ただし、辮髪は本来は蒙古人ではなく満州族の髪型である)。このモンゴル人ギミックは、カール・ゴッチのアイデアによるものだという[1][2]。フロリダではパク・ソンやキング・カーティス・イヤウケアと組み、主力ヒールとしてダスティ・ローデスやジャック・ブリスコら大物選手と抗争[3]。1980年にはジョージア地区(ジム・バーネット主宰のGCW)に登場し、アブドーラ・ザ・ブッチャーやイワン・コロフ、プロフェッサー・タナカともタッグを組んだ[4]。
1980年末よりニューヨークのWWFに参戦。12月29日のマディソン・スクエア・ガーデン定期戦のメインイベントにおいて、ボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦した[5] 。その後もWWFではフレッド・ブラッシーをマネージャーに、ペドロ・モラレスのインターコンチネンタル王座にも挑戦するなどトップ・ヒールとして活躍[6]。アンドレ・ザ・ジャイアントとのスーパーヘビー級抗争も開始し、1981年5月2日、ニューヨーク州ロチェスターにおいてアンドレの右足をニー・ドロップで骨折させて悪名を轟かせた。もちろん、カーンが故意にアンドレに怪我を負わせたわけではなく、実際にはアンドレが自身の過失で試合中に自分の足を痛めてしまい、それに気付いたカーンが機転をきかせトップロープからニー・ドロップを放ったというのが真相である。後日、カーンは通訳を連れてアンドレの入院先の病院を訪れ、この試合の件について謝罪。しかし、アンドレは寛大に笑い飛ばし、「気にするな。あれはアクシデント。君の機転が無かったら試合が台無しになっていたところだった」と逆に励ましの言葉をかけたという。さらにアンドレは「それよりも、あの試合は『キラー・カーンがアンドレ・ザ・ジャイアントの足をニー・ドロップで骨折させた』ということにしよう。俺が退院したら、君との試合は盛り上がること間違いなしだ」と言い、格好のストーリーラインまで提案している。このアングルにより、キラー・カーンのヒール人気は急上昇。彼を瞬く間に世界的なメインイベンターへ昇格させることになった。
翌年、「アンドレの足を折った男」の触れ込みで凱旋帰国。1982年4月1日に蔵前国技館で行われたMSGシリーズの優勝戦では、右膝負傷(実際には糖尿病の悪化とされる)で棄権したアントニオ猪木の代打としてアンドレと一騎打ちを行い、敗れはしたもののファンの「オザワ・コール」に支えられ生涯屈指の名勝負を演じた。年末のMSGタッグ・リーグ戦ではタイガー戸口と組んで準優勝を果たした。その後、1983年より戸口と共に長州力の維新軍団に加入し、新日本プロレスの反体制勢力にまわる。この間、1982年から1984年にかけては海外にも精力的に遠征しており、アンドレとの遺恨試合はミッドサウス地区のMSWA(ビル・ワット主宰)でも実現。NWAミッドアトランティック地区やカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリング(スチュ・ハート主宰)なども転戦し、日本と北米を股にかけて活躍した。
1985年、長州らが設立したジャパンプロレスに参画し、全日本プロレスのリングに登場。同年9月には谷津嘉章と組んでジャンボ鶴田&天龍源一郎のインターナショナル・タッグ王座に挑戦した。1986年5月にジャパンプロレス勢に造反し、ラッシャー木村、阿修羅・原、スーパー・ストロング・マシーンらと結託。このときに日本テレビの若林健治が発した「恩知らずのキラー・カーン」の台詞が強いインパクトを残した。並行してアメリカにも遠征し、テキサス州ダラスではテリー・ゴディ&マイケル・ヘイズのファビュラス・フリーバーズの用心棒となり、ケビン・フォン・エリックやケリー・フォン・エリックと抗争。11月の世界最強タッグ決定リーグ戦にはゴディとのコンビで出場している。
1987年4月に全日本を去り、WWFと再契約。ミスター・フジをマネージャーにWWF世界王者ハルク・ホーガンと短期抗争を展開した他、ランディ・サベージやバンバン・ビガロらと対戦した[7]。また、この2回目のWWF参戦時にはザ・グレート・カブキのような毒霧(アジアン・ミスト)を使用することがあった。同年11月末、ニュージャージー州で行われたジョージ・スティール戦を最後に引退した[8]。
プロレスラー引退後もキラー・カンを名乗り、東京都新宿区中井に「スナック カンちゃん」を開店。現在は西新宿五丁目に店を移し、ちゃんこ料理を主とした「ちゃんこ居酒屋 カンちゃん」を経営している。巨躯にもかかわらず店内ではホールスタッフとして店主自ら接客し、細やかな気配りに定評がある。2005年には『ふるさと真っ赤か』でCDデビュー。居酒屋経営のかたわらバラエティ番組など各種メディアで活躍し、『ロイ白川 心の演歌』(とちぎテレビ)にセミレギュラー出演している。
スナック時代の常連客には尾崎豊がおり、ある時小腹が空いた尾崎にカーンが「こんなんでよかったら」と出したまかないカレーを尾崎がいたく気に入って、カレーを目的に月に数度来店していた。現在の店「カンちゃん」でもカレ-は名物として人気を得ている。
得意技 [編集]

ダイビング・ニー・ドロップ
奇声をあげながら跳び下りる様からアルバトロス殺法と呼ばれた
モンゴリアン・チョップ
同じく奇声を上げながら両手により首元を狙うチョップ攻撃。現在では天山広吉などに継承されている。
クロー・ホールド
ペンデュラム・バックブリーカー
カナディアン・バックブリーカー
エルボー・ドロップ
ギロチン・ドロップ
獲得タイトル [編集]

CWF(フロリダ)
NWA USタッグ王座(フロリダ版):1回(w / パク・ソン) [9]
1979年3月31日にトーナメント決勝でニュー・ブロンド・ボンバーズ(ラリー・レイザム&ウェイン・ファリス)を破って獲得。
MSWA
ミッドサウス・ルイジアナ・ヘビー級王座:1回 [10]
1982年7月6日にトーナメント決勝でジャンクヤード・ドッグを破って獲得。
ミッドサウス・ミシシッピ・ヘビー級王座:1回 [11]
1982年8月27日にミスター・オリンピア(ジェリー・スタッブス)から奪取。
スタンピード・レスリング(カルガリー)
スタンピード北米ヘビー級王座:1回 [12]
1984年1月20日にアーチー・ゴルディーから奪取。
WCCW(ダラス)
WCCW TV王座:1回 [13]
1984年5月7日、負傷した前王者ケリー・キニスキーの後任として王座を継承。
主な戦歴 [編集]

大相撲時代
生涯成績:146勝148敗7休(44場所)
優勝:各段いずれもなし
プロレス時代
第5回MSGシリーズ優勝(1982年)
第3回MSGタッグ・リーグ戦準優勝(1982年)
マネージャー [編集]

タイガー服部(CWF)
ソニー・キング(CWF)
ゴージャス・ジョージ・ジュニア(GCW)
グレート・メフィスト(GCW)
フレッド・ブラッシー(WWF)※ビンス・マクマホン・シニア期
スカンドル・アクバ(MSWA、WCCW)
ゲーリー・ハート(WCCW)
将軍KYワカマツ(スタンピード・レスリング)
ミスター・フジ(WWF)※ビンス・マクマホン・ジュニア期
逸話 [編集]

吉田中学校では長身を活かしバスケットボールで活躍[8]。
新日初期の若手選手の登竜門「カール・ゴッチ杯」の第1回大会で決勝を争った藤波辰爾とは当時から仲がよく、今でも親交が深い。
日本のプロレス界で1・2を争う喉自慢であり、ジャイアント馬場も彼の歌声を愛した。現在も月に2,3回老人ホームを訪問して三橋美智也の唄などを披露している[2]。
そのジャイアント馬場とは同じ新潟県出身者。団体は違えど、馬場はカーンのことをよく気にかけていたという。馬場との巨人タッグを結成する計画もあった。
『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』のプロレスクイズにも出演し、ダチョウ倶楽部と絡んだことがある(DVDの特典映像である歴代優勝者座談会の中でビートたけしからMVPの称号を与えられた)。
スタン・ハンセンが全日本プロレスに電撃移籍した報復として、新日本プロレスはテッド・デビアスの引き抜きを画策。その際交渉にあたったのがキラー・カーンだった。交渉は成功し内諾を得ていたが、契約直前に両団体間で紳士協定が結ばれたため白紙撤回となる。
中井にあった「スナックカンちゃん」は、シンガーソングライターの尾崎豊が常連客だったことで知られる。尾崎はカレーライスが絶品でよく注文していたとのこと。このエピソードは今でも『あの人は今!?』(NTV)や尾崎豊の特集企画などで語られる。現在の歌舞伎町の店舗にも尾崎の色紙が飾られており、生前の尾崎が好んだ特製カレーライスが看板メニューとなっている。
ニューヨークにいた頃の給料は、当時のレート換算で週給にして600万円。まさしく全米マット界でも正真正銘のトップレスラーだったが、当時のニューヨークではエイズが蔓延していたため、ゲイのレスラーと試合をするのに気が進まず、帰国した。[要出典]
レスラーの食事量の多さは有名だが、小沢は特に多かった。カルガリー時代に、ミスター・ヒトに電子炊飯器を借りて米一升を炊き、鶏3羽分の肉と卵12個ほどを使って巨大な親子丼をつくったことがあり、ヒトが「それ誰かと食うのか?」と聞いたところ、「いいえ、僕の昼飯です」と1人で1時間ほどかけて食べていたという。[要出典]
出演 [編集]

プロレスラー引退後、俳優・歌手としてデビュー。
ベルサイユのトラック姐ちゃん 第3話「ベルトラ姐ちゃん大進撃!」(1976年5月14日) - 遠藤幸吉(特別出演)の子分のヤクザ役で出演(小沢正志名義。台詞は無し)
隠密・奥の細道(1988年10月 - 1989年3月)
「火刑都市」(1989年 日本テレビ 火曜サスペンス劇場)
ふぞろいの林檎たち(1991年)
ハロー張りネズミ(1991年)
エバラ家の人々(1991年)
必殺スペシャル・春 世にも不思議な大仕事 主水と秀 香港・マカオで大あばれ(1991年)
極道ステーキ・シリーズ(1991年 - 1992年)
Zの回路 復讐の裏ゴト師(1996年)
NINE-ONE II 魔獣都市・シリーズ(1996年)
MUSASHI(1996年)
逃亡者 おりん(2006年)
ライオン丸G(2006年)
巣鴨バラエティ横丁 第2話(2007年)


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Posted by tokyokarasu2010 at 01:09│Comments(0)
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